日比谷女子に贈るエール ~東京医大不正入試を受けて

2022年9月10日更新:

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画像出典:数学ガール/結城 浩 著

 平成の終わりに発覚した、東京医科大医学部の不正入試問題を巡り、性別を理由にした不当な差別で不合格になったとして、元受験生の女性28人が大学側を訴えた裁判で、東京地裁は9月9日、大学側に賠償を命じる判決を言い渡しました。

「性別のみを理由に差別し、公正・公平であるべき入試の根幹を揺るがすのは違法」との元受験生の主張のように、女性の社会進出に対して不寛容な日本社会を前に、女子学生の君であれば何ともやりきれない気持ちでいるかもしれない。

特に、医学部を本気で目指すような学力上位の女子受験生であれば、結婚して子供を持つという妻や母親として生きることと、一人の社会人として、世の中でどのように自分の能力を活かし輝かせ社会に貢献するかという、二つの価値観の両立について不安を感じるのかもしれない。

その様な中で私自身は、日比谷高校を目指すような女子生徒に対しては、正直これからの社会の担い手として大いに期待しているのです。

今回は、受験勉強に前向きに頑張る女子学生の君に向け、世間の雑音に戸惑うことなく第一志望に向かって集中して勉強することができるよう、応援の意味を込めてこの文章をお届けしたいと思います。

不寛容な時代の寛容たる女神

 現在医療業界では、女性医師の就業状況について否定的に捉える意見がまだまだ多いように感じる中で、翻って一般企業に勤める者から見れば、女性であることが、これからの社会において優位性を持つのは疑いのない事実ではないかとも思う。

東京大学が女子学生に限って下宿代の援助を行ったり、企業が女性に対して優先的に管理職のポストを割り当てるような動きまで、ある意味逆説的な女性差別ではないかと感じるような、女性の社会進出の推進に対する社会的な圧力が強まっている。

このことは、日本社会全体が女性の社会進出を歓迎しているという前向きな意識の表れであるのか、あるいは女性を馬鹿にするのもいい加減にしろというような、何らかの消極的な理由、例えば政府であれば労働者の確保という課題を解決するための手段であったり、大学や企業であれば、消費者やステークホルダーから多様性の高い集団であると評価されるための手段であるなど、集団の利益を実現するための方法論の一つとして行っているのかは定かではないが、とにかく理由はどうであれ、女性が社会で活躍するための法整備や環境整備は今後ますます充実していくことは疑いのない事実であろう。

そしてそんな時代背景にあって、日比谷女子であることは、一人の企業人から見ると、非常に価値のあることではないかと感じてしまう。

何故そうなのかといって、日比谷女子ほど、女性であることへの不寛容で理不尽な世間の状況に対して、嘆くことも諦めることもなく周囲の状況を冷静に受け止め、そして淡々と軽やかに、しかも寛容な態度で対処できる人々はいないのではないかと感じてしまうからだ。

つまり、そう、時代が求める人材というわけだ。

日比谷女子であること

 もっとも、「日比谷女子」という言葉はある種の比喩的な表現であって、実際には高校受験から進学校に通う女子生徒全体を含むと捉えるのが妥当な言葉ではあるのだけれど、それにしても日比谷女子である。

日比谷女子の最大の特徴は、何といっても思考力が高い女子集団にも関わらず、その大部分が公立中学を経験していることであろう。要するに賢いだけでなく、世間の実情とその対処方法を身をもって理解しているということだ。

思うに社会に出るまでに、世間を知る機会はそれほどあるわけではない。

多くの一般市民にとって、物心ついて最初に経験する世間は小学校だ。そして義務教育を修了すれば、それ以降の社会では主に選別された集団構成の中に身を置くこととなる。高校や大学、職場などがその例だ。

だから中学校は、一般社会に近い疑似環境で集団生活を経験する最後の機会となる。そしてその教育機会を十分に享受したのが、日比谷女子というわけだ。

医師であれ政治家であれ、その他社会のヒエラルキー上位に位置づけられる人々であれ、社会の中で自らの立場や生活を支えてくれる顧客の大半は公立中学を卒業した人々である。

しかし、そうした社会的に上位の座を獲得しようとすればするほど現在では、その最大顧客であるはずの一般市民から隔離された集団の中で学ぶことが励行される。つまり、小中学受験から一定のルールに従って選別された母集団の中で成長するという選択だ。親としては、教育環境に対する予定調和を子に積極的に与えようとすることになる。

そうした子供たちは、大衆の本質を肌で理解しないまま社会に出る可能性が高い。

例えば野球であれば、バッターはホームから前のボールに集中する。時に危険球が飛んでくることはあるが、それも想定の範囲として対処することはできる。しかし実際の社会では、ボールは時に想定しない方向からバッターを襲う。160キロの剛球が、いきなり頭の後ろから飛んでくることがある。世界を見渡せば、むしろそうした状況が一般ではないだろうか。

そしてその時になって初めて、予定調和の中で成長した人々は、自らの価値観と、顧客であるべき人々の価値観が異なるという事実に遭遇する。彼らを確固として隔てるそのギャップは、時に双方を悩ませる原因の種となる。

その点日比谷女子の多くは、その価値観へのギャップを、公立中学に通う経験を通じて既に解決済みである。教師が手を焼くやんちゃな生徒から、常識が通じないような、ネット用語でDQN(ドキュン)と表現される生徒や大人まで、積極的か消極的かに関わらず、対処する方法を身をもって学び、心得ているだろう。場合によっては時にそうした生徒や大人たちから、一目置かれる立場でさえあるかもしれない。

いわゆるマドンナという存在である。

あるいはその他にも、東京とはまるで異なる社会や環境の中で過ごした経験を持っているのかもしれない。例えば中学時代を海外や地方で小中学校を過ごした場合のように。

そうした経験を積んだ女性たちが、義務教育を終え、永田町という日本の中枢に集うのは、ある意味現代社会の求めを象徴する興味深い出来事に違いない。

日比谷女子を目指す君に

 だからもし君が、多くは都立中高一貫校かもしれないのだが、中学受験で夢叶わずに、更なる高みを目指して日比谷高校を志すのであれば、私自身は不謹慎にも君を祝福したい気持ちに駆られてしまう。

なぜなら君は、公立中学校で現実の世界を知るという得難い経験を積んだのであるし、学習面で決して有利とはいえない環境の中で、それでも日比谷高校を目指す学力や向上心を身に着けたのであり、その思いはこの先の人生の中できっとプラスとして働く原動力なのだから。

そしてもし君が、海外や地方都市からの転入により、日比谷高校を志す状況にあるのであれば、私自身は大いに君を歓迎したい気持ちに駆られてしまう。

なぜなら君は、東京に暮らしていては絶対に理解し得ない世界の実情や日本のありのままの現実を身をもって体験したのであるし、東京の小中学生と比べて恵まれているとは言い難い学習環境の中で、それでも日比谷をあきらめない勇気を獲得したのだから。

そしてもし君が、中学受験の末に進んだ中学からの内部進学を辞退して日比谷を目指すのであれば、私自身はきっと君を応援したい気持ちに駆られてしまう。

なぜなら君は、多くの高校生や大学生が持ち得ないまま時を過ごす、君自身の在り方や将来の確固たる目標について、15歳そこそこの段階で明確に自覚することができたのだから。

そしてもし君が、都内に暮らしながらも中学受験を経ずに日比谷高校を目指しているのであれば、私自身はもう本当に拍手と共に声を大にして君にエールを贈る気持ちに駆られてしまう。

なぜならば、君はきっと小学生がすべきことを小学生の内に行い、中学生の時にやるべきことを成し遂げた結果、今ここにいるのだから。

それは子供の頃に遊ぶべき時間を思い切り遊び、家族や仲間と楽しく過ごすべき時間を楽しく過ごしたり、あるいはスポーツやコンクールのような自分自信を輝かせるための道を究めることを優先し、あるいは何がしかの家庭の事情を考慮した結果であるのだろうから。とにかくそうした有意義で大切な時間を、意味のある大切な人たちと過ごし、良き経験や思い出を蓄えたのだから。

そしてもし君が、今まで述べた以外の理由のために現在日比谷高校を目指して努力しているのであれば、私自身はやはり君に心からの祝福を送りたい気持ちに駆られてしまう。

なぜなら、それは君以外の誰も経験したことのない貴重な体験を胸に、自らの人生を切り開くために一歩前に足を踏み出した事に違いないのだから。

高校受験に臨む君は、きっと君が最も輝くための道を歩もうとしている。そして、そんな君が君らしく輝くために、星陵の丘は春夏秋冬その風景を変えながら、一年間首を長くして君を待っているのだから。

保護者としては、そんな君をどうして心から応援せずにいられるだろうか。

日比谷女子に期待する心

 あいにくわが家には娘がいないために、実際の娘親の親心を測り知ることは難しいけれど、でももし私が女子生徒の父親であれば、やっぱり私立中学に通わせたいと強く思うかもしれない。公立中学であれば、娘を脅かす理解不能な生徒や大人たちが多数在籍している可能性を否定できないからだ。

もちろん実際には私立であっても、そうした避けて通るべき生徒や保護者は存在するし、必ずしも期待したような教育環境でないことも多々あると思うけれど、やっぱり娘の心身の健やかな成長を阻害する要因を可能な限り排除することに対して、父親としては手をこまねいて見ているということに耐えがたい苦痛を感じるのではないかと想像してしまう。

だからこそ、理由はどうであれ結果としてその険しい道を選択した君は、不寛容な世の中に対する理不尽さを身をもって理解しつつも、それでもその中にあって、明るい笑顔と希望を持って来るべき未来に向かって力強く進むことができるのだろう。 

私が企業の採用担当であったなら、だからやっぱり日比谷女子である君に、是非とも仲間に加わってほしと思う。

なぜなら企業という集団ほど、不寛容性の高い組織はないのであるし、そうした環境の中で活躍し、ステレオタイプな価値観や理念の在り方を問い、あるべき未来志向の姿に組織を変えるのは、やっぱり日比谷女子たる君に期待してしまうのだから。

時代を切り開く先輩諸姉

 閉塞した社会の価値観を打ち破るイノベーターという観点から見た場合、個人的には一人の日比谷OGを忘れるわけにはいかない。

平成の最後に、東京六大学史上初の女性応援団長を担った新宅OGである。

明治大学応援団第九十六代団長である彼女は、3年生までフルートを吹いていたはずなのに、いつの間にか組織全体の信頼を受け、性別を問わず団長に押し上げられてしまった真のリーダーだ。

彼女は完全な男性社会の中で自らが男子に同化するのではなく、容姿も考え方も女子のまま、爽やかに、そして軽やかに、この女性に対して不寛容なはずの組織をまとめ上げ、平成の世が終わろうとする時に、時代錯誤な価値観を象徴するような応援団という古き男社会を、未来に向けて可能性を秘めた組織に変えて見せた。

個人的に明治大学や応援団という存在に、特別な思いを持ち合わせているわけではないが、彼女の雄姿(雌姿?)を目にするのは冷静に心躍るものがある。その高らかとしたエールは、変わるべき日本社会全体への応援歌ではないだろうか。 

古い団員や団長経験者の中には、当然、女性が団長を務めることに断固たる態度で抵抗を示した者も多いだろう。

Youtubeで公開されているこの映像の5:50から始まる彼女のメッセージには、周囲からの極度の重圧の中でその役割を果たし切った者が得た、静かな勇気と強い意志、そして流れるような言葉の構成と語り口に心震えるものがある。

その言葉は、特定の組織に所属するものへのメッセージというだけではなく、閉塞的な日本社会で生きる女性全体へのエールに違いない。

私自身は君の勉強の手を止めてまで何かを語るべき者ではないが、代わりにしばし彼女の言葉に耳を傾けてみてはいかがだろうか。

受験で疲れた君の心に、きっと勇気を与えてくれるに違いない。

そして日比谷推薦女子という存在

 世の中には大学合格実績を競うような、偏差値主義的な価値観を持つ人々が、数多く存在するように感じることがある。そうした人々にとって、どうやら疎ましい存在が、推薦入学者、特に推薦女子の存在であるようだ。

そうした考えの根底にあるのが、推薦入学者は学力が相対的に低いという固定観念だと思うのだが、でもさてどうだろう、推薦でなければ合格し得ないという受験生が一定数含まれるのは確かなようには思うが、忌み嫌うような差が本当にあるのだろうか。

というよりも、学力云々というよりも、個人的には日比谷推薦女子にはむしろ大いに期待してしまうのだ。

なぜかといって、彼女たちほど不寛容な男社会の中で、寛容かつ冷静に物事を進める能力に長けた人材はいないと思うからだ。

日比谷合格数が例年上位に位置するある大手学習塾の有名ベテラン講師から、日比谷推薦合格女子全般に対する非常なる敬意の言葉を直接聞いたことがある。とにかく賢いだけでなく、非常に冷静で、しっかりした人たちなのだと。

同感である。

私自身日比谷推薦女子という集団の能力を、客観的に把握し得る立場にはないが、もし君が、一般入試では合格する学力への自信がなく推薦一本に賭けるような気持であれば、私自身は大いに君に敬意とエールを贈りたい。

なぜなら女性に対して不寛容な今の日本社会の前向きな変化の際に求められるのは、やはり君のような強い意志と確かな志を胸に秘めて、不可能や困難を成功に変えようと努力する女性なのだから。

日比谷女子と数学ガール

 私自身は日比谷女子という言葉に、具体的な一つの女性像を抱いている。

それは『数学ガール』のミルカ女史のような、賢く冷静で、そして美しい黒髪を持つ才色兼備なイメージであるのだが、気づけばこれこそが男性社会の弊害となる、女性に対してステレオタイプな理想像を押し付けるハラスメントというべきものかもしれない。

でもそれは、もちろん言い訳に過ぎないのであるが、私自身にとってはある意味仕方がないことなのだ。

なぜならばあの当時、初めての日比谷高校の学校説明会に妻と訪れた際の学校案内で、われわれの前に颯爽と現れた日比谷女子こそが、まさにそんなイメージを体現したかのような、美しく聡明な女子生徒だったのだから。

そしてこれこそがまた、男の甘えというハラスメントの最たるものなのだが、そんな男たちの身勝手な価値観の強要を、日比谷女子である君は、フンと鼻で笑って流してくれるに違いないと思ってしまうのだから。

女子学生に不都合で不寛容なそんな社会の現実を、寛容な心で優しく静かに変えていく力をもった君に、男であり父親である一人の社会人として、心秘かにエールを贈ります。

ではまた次回。