日比谷高校を志す君に贈る父の言葉

日比谷高校第一志望ながら、日比谷、開成、塾高のどこに入学すべきか、都立合格発表まで悩んだ父親が贈る、上をめざす君と家族を応援する徒然日記

フェイクニュースとは何か?

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 もしかすると、スマホ世代の君にとって、真実とフェイクニュースを見分けることは、既に日常生活を送る上での重要課題の一つとなっているのかもしれません。フェイクニュースに騙されたり踊らされたくないと思うことは、自然な感覚です。

問題は、どのようにフェイクと真実を見分けるのか、ということです。

これに対する私自身の答えはとても簡単です。

その答えは、見分ける必要はないというものです。そもそもニュースは基本的に全部フェイクであるので、真実かどうか悩んでも仕方がない、ということです。 

 

ニュースと情報と真実は違う

 フェイクニュースという言葉の裏には、世の中には真実の報道と偽りの報道が存在するという価値観が隠れているのだと思いますが、そもそもこの前提自体が間違っているように思います。

真実と情報とニュースは、それぞれが全く別の存在であるからです。

真実は、いつでもどこでも私たちの周りに常に存在するものです。例えば、地球以外の星に生命体が存在するのかどうかという命題に対する答えは、人類がその存在を知覚するかしないかに関わらず、既に決まっているものです。

そしてある特定の真実に意識を向けた時、例えば地球外の生命体を探るために探査機を宇宙に飛ばした場合、そこから様々な情報が、私たちの前に姿を現すことになります。例えば、火星には水があるのかないのかという情報です。

そして集まった情報を第三者に伝えるために、それを文章や映像などに再構成したものがニュースであると個人的には捉えています。つまりニュースであるための必要条件とは、人の手で加工された情報であるということになります。

つまりある真実に対して、それを伝達する目的で主観を加えて表現したものが、ニュースなり報道であるということです。

こうした前提に立ってみると、ニュースというものは、どれほど客観的な事実を積み上げたものであったとしても、必ず送り手側の主観が介在するために、真実から乖離した情報とならざるを得ないことになります。

一般的には、その乖離が善意に基づく許容範囲である場合には真実、悪意に基づいた容認できない範囲である場合にはフェイクとみなされるように思いますが、善意や悪意、あるいは受け手の許容範囲というもの自体が真実からの距離ではなく、個々の主観的判断に基づくものであることを考えれば、ニュースはすべてフェイクであると考えることが、情報に対し健全な判断を行う上で、まずは必要になるのではないかと感じます。

ですからニュースの受け手側の姿勢としては、それが真実か否かということよりも、例えば自分にとって好ましいか好ましくないかという判断である方が、より適切な価値基準になるのではないかということになります。

ニュースには真実とフェイクの差などはなく、むしろすべてが送り手の主観に基づく創作だと言い切ってしまった方が、この命題を解決する上ではより確からしい出発点に立つことができるのではないでしょうか。

 

ニュースと料理

 以上を整理してみると、次のようなことになります。

まず大前提として、ニュースというものは、ある真実が発する様々な情報を伝えるために、人間の主観が加わった結果として生まれた創作物であるということです。

そして、ある事実に対して何らかの意図を持つ主観が加味されたものである以上、ニュースは真実ではあり得にくいということ。しかもそこに加味される情報の数々も、意図的なフィルターを通して取捨選択された結果配信されたものだということです。

目の前で何かが起こったとする、あるいは何かがあるという場合を考えてみます。

その事象なり対象物なりを、直接体験した者にとって、この五感情報は真実に違いないでしょう。例えば、何かを食べた際の味覚、これは食べた者にとっての真実です。

そしてこの真実を第三者に伝えようとする努力、これが報道であり、その試みを何らかの表現にまとめたものが、ニュースであると考えると腑に落ちるのではないか。

つまり、真実という素材を元に、情報という様々な調味料を加えて出来上がった料理がニュースだと考えてはどうだろう。

ある出来事といった、同じ素材から出発した場合であっても、料理という形で提供されるものが、作り手によって味も見かけも異なることは、我々が日常的に受け入れている真理であるはずです。むしろ素材を如何に調理するのか、その点が料理人の腕として試されていることであり、存在価値であるはずです。

そしてこの料理を評価する指標としては、

  • 素材の活かし方
  • 味付けや盛付け等の独自性

こうしたものであるはずです。

ニュースに対する評価もこれと同じように、真実という素材の味をどのように活かしたか、また表現の構成がどの程度巧みで自分好みであるのかということになります。

季節の新鮮な野菜を一切調理せずにそのまま生で食べる。

これが素材の味を確かめる唯一の方法でしょう。そしてこの状況はニュースではなく、例えば防犯カメラの映像を、一切加工せずにそのまま流すような状況であるといえるでしょう。

しかし、もしそれが真実を語るための一つの方法だとしても、日常的にそれを望む者は多くはないでしょう。その情報は無味乾燥すぎるきらいがあるからです。生野菜であれば皮をむき塩を付ける程度でも、鮮魚であればさばいて醤油を付ける程度でも、味わうための準備が欲しくなるものです。

ですから我々は情報に対しては、真実そのものを望んでいるというよりは、真実の味を活かし調理した状態を望んでいるという方が、一般的には正しい状況だといえそうです。

この20年ほどの間に、テレビ報道がショー化した背景も、そうした大衆の潜在的要求に応えた結果であるのかもしれません。

そう考えると、ニュースは真実か否かという点にこだわり悩むよりも、むしろ誰が提供したものであるのかという判断が、日常的にはより重要であるということになります。

ニュースの出来や味付けを決めるのは、記者である料理人の腕であり、何よりもそのレシピにあるからです。 

 

レシピと盛付けを決めるデスク

 従来、ニュースを世の中に配信できるのは、企業体としての報道機関や出版社が中心でした。ここから配信されるニュースは、個々の記事の書き手である記者個人の意見という以上に、情報を取りまとめ、配信する編集デスクの意向に沿った内容となります。

そしてそのニュースの内容は、世論をどの方向に動かすのかという、政治的、社会的、商業的なトレンドの創出という観点に基づいて調理されているように思います。分かりやすい例でいえば、国家体制を支持するのか、反体制的であるのかという視点です。

ネット社会が本格化するまでは、一般市民にとっては主に、オールドメディアが提供するレシピに基づく味付けを口にするより他に情報に触れる手段はありませんでした。報道機関が情報の総合商社として、すべてのレシピを一括管理していたからです。

ですから一般人にとっての情報の選択は、どの報道機関を選択するのかということであり、情報の中立性を求める場合には、複数の報道をチェックする努力が必要な状況にありました。

ところがSNS社会になり、この状況が劇的に変わります。

商社や卸を介さない直販やネット通販同様に、個人が自由に情報を配信する時代となったからです。しかも情報の配信に伴う第三者の閲覧に対し、広告収入という形で報酬が発生する状況となり、事態は一変します。

第三者への影響を目的とするニュース配信以外に、主に承認欲求や広告収入を目的とするニュースや情報配信が、爆発的に増加することになったからです。

そこには、素材の吟味や情報の取捨選択に対する道徳的、倫理的な問題が様々発生することとなりますが、外食チェーンの味に飽き飽きしていた大衆にとっては、新鮮な味付けや盛付けを提供する個人食堂が次々にオープンする形となり、歓迎されます。

デスクが長い間門外不出として守ってきたレシピには、以前ほどの価値が存在しない状況となり混沌を極めます。

そしてそのような背景の中で登場したのが、フェイクニュースと呼ばれる概念です。

 

フェイクニュースの意味

 改めて、ニュースはすべてフェイクであるという立場で見ると、フェイクニュースという言葉には、二つの意味があるように感じます。

一つは、自分の嗜好と異なるニュースを否定しようとする意味合いです。具体的には、トランプ大統領が口にする、フェイクニュースという言葉の意味に近いでしょう。そしてその言葉の登場により、政治の世界における情報戦の存在が浮かび上がります。

そもそも政治の世界では、有史以来、フェイクニュースは身近な存在であるはずです。戦であれ外交であれ国内統治であれ、情報操作なしには政治は成り立ち難いものであることは、歴史を紐解けば容易に理解できるものではないでしょうか。

従来大衆に向けた情報操作を担っているのが報道機関であることも、先の大統領選を通じて改めて、逆説的に浮き彫りになった形です。

そしてフェイクニュースのもう一つの意味としては、報道機関自らの危機感を表す言葉という側面です。

オールドメディアがフェイクニュースという言葉を用いる時、私自身は報道への哀愁を感じます。そこには自分たちの配信するニュースが本当のニュースであり、ネットを中心とした不特定多数の配信するニュースは虚偽であるという大衆へのアピールが表れているように感じるからです。

逆にそうした言葉をぶつける必要が生じる程に、報道機関の世論への影響力の低下が進んでいるのだと感じます。その中には、長い間独占的に享受した情報発信既得権に対する復権への希望の表れが含まれるようにも思います。

フェイクニュースという最近の言葉は、オールドメディアが感じている、自らの立場の地盤沈下に対する状況から生まれた言葉でもあるように思います。

 

フェイクニュースとどう向き合うか

 フェイクニュースと向き合う方法、それはこれまで見てきた通り、すべてのニュースに向き合う方法に他なりません。

その第一歩は、ニュースは真実とは異なると認識することです。どのような目的であれ、真実に、様々な脚色が加えられた作品、それがニュースであるからです。

わが家では子供たちに対して、小さい頃からこう語っています。

「教科書に書いてあることは世間の常識だから学んだ方がいいけど、真実かどうかは分からないから、大きくなったら自分で考えなさい。」

かつて私自身はなぜ学ばなければならないのか、という命題に対して真剣に悩んだ時期があります。その結果、大学を中退するという道を経験することになりました。

そんな私が君にアドバイスするならば、ニュースに対しても同じ言葉を投げかけたい。

ニュースは世間の常識だから生活をする上では確認した方がいいけれど、どの程度真実が含まれているのかは自分で考えろと。

くれぐれも、ニュースが真実であるとは思わないことです。そのような期待をするからこそ、フェイクニュースという言葉が意味を持つことになるのです。

ニュースに対しては、社会生活を営む上での常識を身に着ける程度に軽く接し、この報道がどのような目的で書かれているのだろう、その目的に対してどの程度の効果が現れているのだろうかなどと、俯瞰的な態度で接することがよいのではないかと思います。

フェイクニュース、それは有史以来存在した、情報発信に対する人間の態度を表した言葉であるのかも知れません。この日比父ブログを通じ、情報発信側の立場として世の中を眺めた結果感じることは、人間は、メディアを通じて配信される情報に対して、あまりにも盲目的に信じる傾向が強いということです。

そしてその傾向が特に強いのが、教育に対する保護者の反応ではないかと感じます。

現代の教育業界は、印象操作や不安を煽る情報に溢れており、多くの保護者の方がいとも簡単に操られていると感じます。

私自身が文章を書くのは、そうした現実に対して、看過できない状況を感じているからです。莫大な経済効果を生み出す教育産業に対して投じられる、巨額のプロパガンダに対し、バランスをとるためにささやかな抵抗を試みること。それが日比父ブログを続ける理由だといえるでしょう。

ですから情報の創作や配信に対する態度を自ら戒めながら、少しでも多くの保護者の方に信頼される情報発信者であるように、努めていかなければならないと感じています。

ではまた次回。


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