日比谷高校を志す君に贈る父の言葉

日比谷高校第一志望ながら、日比谷、開成、塾高のどこに入学すべきか、都立合格発表まで悩んだ父親が贈る、上をめざす君と家族を応援する徒然日記

天皇陛下とメリークリスマス

f:id:mommapapa:20181223161455j:plain

近未来アニメのような天皇誕生日の渋谷のクリスマス

 2018年12月23日は平成最後の天皇誕生日。

グローバルや多様性という言葉がもてはやされたり、平等に敏感で区別に対して不寛容な時代背景からか、天皇という存在の是非についても一昔前と比較すると、ずいぶん表立って議論されるようになったのではないかと感じます。

天皇については、私自身は継続して存在した方がよいと考えています。

その理由は二つありますが、一つは、天皇という存在が失われた場合、そう遠くはない将来、日本語を母語とする文化や民族が、地球上から消滅する可能性があると考えるからです。

論理的な説明はできませんが、直感的に、地球上には日本語を母語とする民族が継続的に存在した方がよいと個人的には考えています。単に私自身が日本人だからそう考えるのかもしれません。

地球も一つの天体である以上、やがては消滅する運命にあるというのは科学的に正しい解釈だと思いますが、少なくともその日まで、日本語が宇宙の中に生きる言葉として存在することが、世界秩序を保つためには必要なことではないかと思います。

日本国憲法と天皇と日本語

 私自身は法学には全く知見がないので、専門家の方から見ると笑ってしまうレベルだと思いますし、正しい内容であるか分かりませんが、少なくとも日本国憲法には、日本国の母語が日本語であると直接的に定義された条文はないと思います。

あくまで私見ですが、もし憲法内にその定義が存在すると考えるならば、それは第一章にある次の条文ではないかと思います。

日本国憲法第1条

天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。

つまり、日本国民統合の象徴たる天皇が用いる言語、すなわち日本語が日本国民の総意としての母語なのだと間接的に定義されている。

もちろん、そのような解釈が正しいかどうかに関わらず、歴史的、文化的、民族的慣習から、日本において日本語が唯一の母語であり続けるのは当然のこととしてわれわれは受け止めているでしょう。しかしながら、もし仮に、天皇制が廃止となり、憲法から現在の第一章が消滅した場合はどうなるでしょう。

その場合、私はいつか日本の公用語を、例えば英語にするとか、あるいは英語を第二の公用語として認めようという議論がなされ、いずれ実際にそのような法案が可決する可能性が少なからずあるのではないかと危惧しています。

そして英語が公用語として認められた場合、当然義務教育の現場で用いられる言語も英語に変わります。それはわれわれの国語が英語に代わるということを意味すると同時に、日本語が、家庭の中でのみ慣習的に利用される裏の言語となることを意味します。

国民の象徴たる天皇が失われ、公用語が外国語に変わったのならば、それに伴い日本語が失われると同時に、かつて象徴と共に存在した伝統も祭事も神社も、風土や民族の意識や記憶さえも、やがては歴史の中に全て失われていく運命を辿るでしょう。

日本国憲法第七条

天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ。

(一から九まで省略)

 十 儀式を行ふこと。

憲法第七条の十項には、われわれ日本人が象徴たる天皇を介して後世まで伝えるべき伝統や文化がその中に守られているのではないか。それは日本のためだけでなく、地球が永続的に存在するために潜在的にその古からの教えを世界が必要とするためではないか。

現在政治課題として取り上げられているような、大嘗祭をはじめとする様々な儀式や伝統行事も、それらがあるが故に経済合理性の論理から守られながら脈々と続く、日本古来の技能や知識などの有形無形文化が存在することも確かなことだと思います。

天皇という存在は、それが現代の法の下に是か非かという議論以前に、われわれが当たり前のように受け止めている日本語を母語として暮らす文化や生活を下支えする潜在的な社会的機能として、国民が共有するシステムの一つなのではないかと感じます。

 

日本語をめぐる危機感

 こういうことを真面目に書くと笑われるかもしれませんが、現在日本語は、長期的に見てその存続の危機に晒されていると感じています。

国家の有事といわれる中で、諸外国との関係において生じるものは、尖閣や竹島のような目に見える軍事的、地政学的な問題から、通貨危機のような経済問題まで様々ありますが、言語に関する有事という概念は、ほとんど意識されていないように思います。

言語における有事とは、先に述べた通り、母語であるべき言語が消滅し、他の言語に取って代わられるという言葉の略奪です。

国土や経済は、回復が可能な種類のものであるのに対し、言語や文化については、何世代かに渡って一定期間失われてしまえば取り戻すことが容易ではない、国民一人一人のアイデンティティや潜在意識に関わる問題です。ですから決して失ってはいけない。

私が危機的状況だと感じる要因の一つが、先の天皇や天皇制の在り方についての議論の高まりであり、少子化という言語キャリアの絶対数の課題であり、その他教育行政や外国人政策についての昨今の社会的変化にあります。 

例えば、日本語の危機としてよく指摘されるような、ラ抜き言葉や若者言葉の氾濫といった、意味や形態の変化に対しては、私はさほど懸念はしていません。

なぜならば、言語に生じるそのような変化は、良くも悪くも長い歴史の中で繰り返される進化であり、むしろ変化こそが様々な時代の中である特定の言語が存続するための手段であり、言葉が生きている健全性の証でもあると考えるからです。

 

日本語とアイデンティティの消滅

 一方私が感じている日本語に対する危機感は、日本語そのものが生きた言語として地球上から消えてしまう、例えば古代シュメール語のような、一部の言語マニアや専門家のみが研究の対象とするような、現代社会では生活の中で使う者が皆無な文字通りの死語となる状態のことを指します。

それはつまり、日本語を母語とする国民の消滅という、言語そのものや民族のアイデンティティの存在に関わる根本的な危機感です。

たとえ日本という国家が維持された場合でも、その国の母語が日本語でない場合には、国際秩序や経済合理性の中で選択された、形骸的な国家の枠組みが継続しているに過ぎません。それはもはや現在日本人がや世界が必要としているような日本とは言えない。

もちろん言語が失われても、民族の虐殺のような事件がなければ、民族の血筋がなくなるわけではないでしょう。もしかすると、密かにシュメールの遺伝子を引く人物なり民族が、本人も気づかないうちに脈々と生き続けているかもしれません。

ただしそれは生物学的、遺伝的な意味における継続であって、世界や地球の在り方に関わるような、民族的、文化的な意識の継続とは言えない状況です。

そうした民族の独立を守るのは、防衛力の強化といった軍事的行動である以上に、教育や言語に関わる意識の問題が大きいように思います。

 

日本語クライシスの3段階

 日本語の存亡に関わる危機的状況には、大きく3つの段階があると考えます。

例えば教育面を中心に取り上げるならば、以下のようになります。

日本語存亡第1警戒ライン

 これは既に始まっていることですが、早期外国語教育の推奨です。

現在小学校での英語教育が始まっていますが、これに呼応するように中学受験での英語が必須となる時、この警戒ラインは更に脅かされ、後退するでしょう。

私立中学、特に中堅校辺りは、必ず英語入試を必須化すると思います。

なぜならば、現在中学受験生の弱点と指摘される要素の一つが、この英語能力であるからです。中学入学時に相当の英語能力を保有させることで、数学と並んで英語教育の更なる先取り学習が可能となり、大学受験における中高一貫校有利の盤石な体制ができあがる。

これは少子化がもたらす教育産業における消費者減少の縮小マーケットにおいて、私立学校が生き残りのために必ず押さえなければならない重点課題の一つです。

そしてその暁には、教育意識の高い保護者の早期英語教育熱はますます高まり、受験産業界に新たなバブルを生み出すでしょう。円周率=3のような、不安を煽る受験業界の古くからの定番商法は、容易にその効果を発揮し、その結果は彼ら自身を狂喜させるものとなるでしょう。

そのようにして、母語での論理思考の発育を促すことへの重要性は忘れられ、日本語である国語に対する教育意識は薄まると同時に、外国語である英語教育への意識は高まりをみせ、将来の英語公用語化への下地作りは着実に進むのではないでしょうか。

日本語存亡第2警戒ライン

 第1警戒ラインの突破と並行して既に進んでいることですが、正規不正規含めた実質的な在日外国人の急激な増加や、これから始まる外国人労働者の受入れによる、外国語行政サービスへの需要の高まりと、やがて日本社会の中で声高に謳われる、外国人参政権の問題です。

個人的には、人口や労働力の減少は、本来であれば豊かな日本社会を再構築するための大いなるチャンスだと考えますが、政治的な決断は、グローバル経済主義への追従を前提とした、外国人労働者の受入れということになりました。

私自身は、日本での外国籍者との共存や協業を排斥しようとする考えはありません。ただしこれは、日本語を唯一の公用語とした社会への適応を、ぶれない基本とする場合においてです。

詳細は割愛しますが、いずれにしてもそう遠くはない将来、外国人参政権の是非が問われる政治局面が訪れるでしょう。

その状況下でのマスコミの報道は、来日した正規外国人労働者およびその家族が、日本社会の中で味わう異文化や言葉への適応に苦しむ状況が繰返されるものとなり、外国人参政権法案化やむなしの社会的気運が醸成されるかもしれません。

国政への直接参加を除いた場合でも、外国人参政権が認められた暁には、例えば北海道や埼玉県の川口市、あるいは過疎化の進む地方自治体において、外国人独立自治区の成立が合法的に実現し、その結果、外国人学校ではない普通義務教育や公教育における外国語による教育環境が実現すると共に、最終的には外国籍者の利益を代弁する国会議員が誕生し、母語としての日本語の基盤が大きく後退するのではないかと懸念します。

日本語存亡第3警戒ライン

 第3警戒ラインは、既に記載したような、天皇制の廃止や外国語公用化の流れです。

現状ではありえないと思われるこれらの状況も、私自身から見れば、既に第1、第2警戒ラインの後退を通じて芽は出始めているという感覚があります。

東宮家や秋篠宮家を巡る様々な報道も、第3ライン突破の敷居を下げるために大衆の心理を印象操作するための予備報道なのではないかと思うほどの出来過ぎた状況です。

軍事力による制圧を行うまでもなく、こうした意識下での合法的な侵攻は、外国からの土地買収の問題と相まって、現在の日本社会では容易に実現することができる危機ではないかと案じます。

 

日本語のない日本と日産自動車

 日本語のない日本の状況、それは現在の日産自動車を見れば容易に想像がつきます。

文化や精神的な拠り所である天皇に代わり、グローバル経済を代表するような、資本の効率化を実現する実質的なリーダーが、新たに日本の君主として君臨するでしょう。

それは、ワンワールドという幻想がもたらす世界がそうであるように、実際には人間の豊かな暮らしとは相反する世界の実現、特定の誰かや集団が実質的に大部分の利益や大衆の意思をコントロールする世界。

それは同時に、地球というかけがえのない宇宙の存在が、脅かされる世界。 

もしかすると、既に世界はそうであるのかもしれません。そしてその場合、隷属化された人々の慰めのために、天皇という象徴が引き続き存在しているのでしょうか。

高校生と小学生の保護者の立場から見ると、現代日本における大学入試を頂点とした受験産業のピラミッド構造は、学問の追究や科学技術の発展を通じた安定した国づくりを支える能力の育成基盤というよりは、垂れ下がった蜘蛛の糸に群がる大衆の奪い合いの構図のように、その特定の誰かには見えているのではないかという気さえします。

本質から外れた利益に群がる大衆の姿は、その誰かにとっては笑いの対象であり、脅かされ、また知られたくはない不都合な真実から大衆の意識が逸れているという意味において、心安らぐ状況ではないかという気がします。

 

集団討論「天皇制は是か非か」

 私自身は日本語が存在する地球世界があってほしい。

それは選民思想や中華思想のように、やがてすべてを同じ色に塗りつぶそうとするような思いではなく、あるいは多様な存在や価値観を排斥するような考えでもなく、世界のバランスと地球環境の健全性を保つために、日本という島国の中で日本語がしっかりと生き続けることができる社会の実現を希望するものです。 

「天皇制は是か非か」

こうした政治的な論点は、推薦入試の集団討論のテーマとしては出題されることはないでしょう。でも高校生である18歳が成人年齢となり、選挙権を持つ時代に生きる君には、大学受験の結果だけに目を奪われるのではなく、こうした命題に対しても、逃げることなく自らの意見を考える大人になってほしい。

私の答えは明確です。天皇は必要だと考えます。

その理由は、日本という国が日本語を母語として未来に存続するために、天皇という国民の象徴たる存在が、社会システムとして必要だと考えるからです。それが正しいか間違っているかということは、また別の問題です。

未来の日本を担う君は、さてどう考えるだろうか?

あるいは天皇制は継続する場合でも、未来の天皇がその報道会見で、

「国民の皆様メリークリスマス」

と英語で語る近未来が、やがて訪れるのでしょうか。

ここに書かれた状況が、私の中の大いなる杞憂であり、よくできた近未来アニメの脚本の類であってほしいと切に願います。

ではまた次回。


国歌と国旗と日本人のアイデンティティ 

未来の天皇悠仁さまの進学問題

多様性社会と外交人参政権

世界覇権を目指す世界の国民教育