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日比谷高校を志す君に贈る父の言葉

日比谷高校第一志望ながら、日比谷、開成、塾高のどこに入学すべきか、都立合格発表まで悩んだ父親が贈る、上をめざす君と家族を応援する徒然日記

オリンピックにみる、君が代と日の丸の美しさ  ~社会の深層

時事問題

          リオオリンピック閉会式日の丸


 リオ・オリンピックの日本の引継ぎプレゼンテーションは素晴らしかったですね。 

特に、君が代と、真っ赤に染まったトラックが日の丸に収束していく導入部分は、日本の美意識が凝縮されたようで感動しました。正直、何回も繰り返し見てしまいます。
我が子も、この君が代斉唱にはいたく感動したようで、若い世代を中心に、世代を超えて共感を呼んだようです。
オリンピック旗を、和服に身を包んだ女性知事が受け取る姿もよかったです。映像で見ながら正直ほっとしました。 

さて今回は、国家への帰属を強く意識する機会となるオリンピックを通じて感じた、学校における日本人のアイデンティティ教育の在り方について考えたいと思います。

学校での”君が代”斉唱の是非について問われた場合、君はどう答えますか?

  

君が代はいつどこで習うのか?

 実は、これは日比谷に通う長男が、幼稚園、小学校の頃からずっと感じている10年来の疑問です。我が家の子供たちは、小学校では君が代を習った記憶がないようです。
特に一番下の子供は、今でも歌詞があいまいな様子。今回の東京五輪のプレゼンを見ながら早速練習していました。

一人の親としては、国家も歌えない子供を生み出す日本の義務教育には疑問を感じますし、物心ついて自国の国家が歌えないようでしたら、外国に行ったら笑われる、というか、これだけ教育水準や科学技術が高い国なのにどうそんな基本的なことが身についていないのかむしろ驚かれるでしょう。対立国があるならば、国力の低下の象徴として大いに喜ばれるでしょう。

 そういえば、現在の我が家の指定公立小学校には、掲揚台がありません。ですから、校旗も国旗も風にたなびく姿を見たことがありません。
街中でも、よほど特別なイベントでもない限り、日の丸を目にすることはありません
子供たちは日常では日の丸に触れたり、君が代を耳にするという機会に恵まれずに過ごすわけです。せいぜい入学式と卒業式に意識するといった程度でしょうか。
でも小学校であれば、6年の間にたった2回限りですし、入学式では国家や国歌というような意識すらないでしょう。それに、式といっても、国歌斉唱の練習は特別にはしないんですね。他の歌の練習や起立、礼、着席などの段取りは繰り返し練習するのに、そこだけ触れずに済ますなんて、逆に気持ち悪いです。

学校側も、式に備えて国歌の練習をしないのであれば、いつまでに歌えるように各家庭で練習して下さい、というような案内を出すくらいは、最低限の学校の社会的責任として対応してほしいと思います。
例えば運動会や始業式など、せめて1年に1回程度は、学校で国旗掲揚や国歌斉唱の機会があってよいと思います。
これらは、戦後から現在に続く日本全体に共通する状況なのでしょうか?

 

幼少の頃の国旗の思い出

 もう40年も前になりますが、私が田舎の小学校に通った頃には、毎週月曜日に校庭で全校生徒が集まる朝礼があり、毎回国旗掲揚を行っていた記憶があります。旗を揚げるのは、確か生徒会が担当していたように思います。

バックには国歌が流れていますから、「苔の~む~う~す~う~ま~ああでぇ~」の「でぇ~」でぴったり頂点に旗が到着するかどうか、いつも並んだ列の中から見上げるわけです。伴奏の終了と同時に旗が収まれば、一人心の中で何となく達成感を覚え、最初ゆっくり上がっていき、最後間に合わないと分かり、滑車をがカタカタ鳴らしながら急に勢いよく旗が上がって行く場合などは、なんだか子供ながらに美しくないと感じたり、とにかく、毎日、校庭前方の朝礼台の上空には、校旗と並んで日の丸も風に翻っているのが、是非はともかく当たり前の風景でした

 蛇足ですが、今回のオリンピック閉会式では、明らかに日の丸の掲揚が遅かったですね。斉唱が始まってから、旗が運ばれて来たのが画面右下に映っているように見えます。歌の終わりごろになってもまだ旗が下の方にあって、都知事も少し心配しているような表情に見えました。

さてこうした状況は、時代や地域によっても大きく異なると思いますが、現在の東京の状況はちょっと異常に感じます。
子供達は生活の中で、国家への帰属感や国際人として旅立つ前の自分の拠り所を意識する機会が圧倒的に少ないですね。
街に出れば外国人にあふれてはいるけれど、自分が何者か、という視点は、学校教育の過程で提供されないわけです。それこそ、ワールドカップやオリンピックなど大型の国際大会でないと、国家を意識する状況に置かれないわけです。
英語を勉強する前に、日本語でやるべき教育は、まだたくさんあると思います。
  

君が代と日の丸は、偏った思想を示す踏み絵なのか?

 個人的には、日の丸も君が代にも特別な愛着を持っており大好きですが、それは自国のものだから、というだけではありません。
純粋に、日の丸は、世界の国旗の中でもズバ抜けて垢ぬけた、デザイン性の高い国旗だと思いますし、それが遥か一千年の彼方に起源をもつ紋章だということに驚かされます。また、星と月を掲げる国旗が多い中、太陽をモチーフとする日の丸からは、特別な存在としての意義深さを感じます。もちろん、そう感じる背景には、既に愛国心というバイアスがかかっているという指摘はあるでしょう。

そういえば、競技場が日の丸を表した際に、バックに聖火台の太陽のオブジェが輝きを放っているカメラの構図は象徴的でした。
日の丸を特定の権力や宗教に結び付ける意図はありませんが、古代の太陽信仰の儀式に参加しているような、それでいて、あの白い中性的なロボット風の存在が醸し出す近未来感と相まって、これまで感じたことがないような神聖で不思議な感覚に、会場全体が包まれていたのではないでしょうか。

また、君が代の短く荘厳な調べを耳にすると、やはり世界の中でも群を抜く美しい国歌だと感じ、日本を誇りに思う気持ちとアイデンティティが自然と喚起されます。

 これらの感情は、極端に偏ったナショナリズムの傾向なのでしょうか?
 過去の戦争への賛美と未来の戦争を求める気持ちの表れでしょうか?

特に、金メダルの表彰台で、国歌と共に他国の国旗を従えて昇る日の丸を見るにつけ、シンプルで完成度の高い国旗と厳かな国歌を持った民度の高い国家であると再認識し、日本に生まれた喜びを感じます

 こうした感情は、極端に偏った選民思想の芽生えでしょうか?

 私は子供の出産には全部立ち会いましたし、学校行事にも積極的に参加する方だと思います。入学式や卒様式などでの国歌斉唱の時間も、一般市民としてはなかなか体験できない貴重な機会ですから、楽しみにしています

海外の日本人小学校の卒業式で高らかと歌い上げた君が代の大合唱は、本当に感動と涙が体の芯から溢れ出す、アスリートの体験に近いものだったように思います
ただ、音痴だから大きな声で歌うなと妻にくぎを刺されているのと、声が大きく通るほうですから、目立ちすぎて妻や子供が恥ずかしく思うのも申し訳ないので、仕方なく抑えた声で歌っています。

それとやはり、戦後教育とマスコミの影響でしょうか、公衆の面前で君が代を声を出して歌うという行為自体に、何か暗黙のタブーを破るような、あるいは特別なレッテルを貼られるのではないかという、ある種の恐れを感じることも事実です
こうした一連の文章を公に問うこと自体にも、一市民としては、何とも憚られる抵抗感が正直あります

 しかし普通に考えると、自国の国家や国旗を、自国の教育の現場で公にしてはいけない、ということの方がかなり異常なことだと思います。そういう意識や空気が少しでもあること自体が相当おかしな状況だと思うのです。

健全な愛国の感情と、過去の歴史や政治的な信条とは、直接関係がない事です

 

隣国では、建国記念日に国中が真っ赤に染まる

 お隣の建国記念日である国慶節の時期に現地に行くと、とにかく街のあちこちが深紅の国旗で埋められているのを目にします。道路なども、街路灯という街路灯に国旗が掲げられ、初めて見ると圧倒されると同時に、むしろこれが正常な国家意識に近いのではなかろうか、日本は何をやっているのだろうかと、逆に気づかされます

これは政府の国威高揚や国体の維持のための全体主義的な目的も多分にあるでしょうが、自国の建国を祝う行為としては至極まっとうな対応に思います。隣国がどうかは別にして、健全な国家の中の一般の国民であれば、国の記念日に国旗を掲げることに対して、誰も疑問に思うことはないわけです。

むしろオリンピックの表彰台と同じく、国民としてのアイデンティティを再確認する、誇らしい行事であるに違いありません。
その場に居合わせれば、否が応にも自分が日本人であることを逆に強く意識しますが、自然な彼らの行為を咎めようと思う意識さえ生じません。

妻の実家では、今も祝日には玄関先に日の丸を掲げていますが、これは一般的には日本中から既に消えてしまった習慣のように思います。なぜ日本では、個人の行為として、公に向けて国旗を掲げることすら、多大な注意を払わなければいけないのでしょうか?

 

ワンワールドは目指すべき理想の体制か?

 隣国や、その他の国の当たり前の現実に対して、日本の状況はどういうことでしょうか?
日本語を含む日本の伝統文化や日本人のアイデンティティを、人々の意識から抜き去ることが目的なのでしょうか?

そしてその後は、いったいどうしたいというのでしょうか?
赤い国旗や青い国旗を掲げて外国語を母語とした新しい国家を建設したいのでしょうか?あるいは、特定の民族や文化に依存しない一つの世界、ワンワールド的な社会を確立したいのでしょうか?

 言葉の定義を定めずに話を進めるので感覚的な話となりますが、個人的にはワンワールドやジェンダーフリーというものは好みません。理由はいたって簡単です。

人類の歴史を見る限り、人間はそうした理想を体現するまでの進化には程遠い存在だと考えるからです。現時点ではそれは、多様性の破壊と特定の個人や組織への権力の集中、という結果に終わることが明らかだと思うからです。

 一人の親としては、生まれた我が子を病院に預け、誰かがそれを思想的に偏りのない存在として中性的に育てる、というような世界は好みません
性別や民族や、国家や文化、思想等の区別は、現状あって然るべき価値観の尊重だと思います。我が子を自分の元で育てることは、生物的に劣った考え方なのでしょうか?

そういうまやかしの世界に覆いつくされないためにも、一人の人間として、また一人の国際人であるためのアイデンティティの拠り所として、日本人である我々の基本的な教養として、日の丸や君が代を、子供たちには義務教育の中で最低限身に着けてほしいと思うのです

そうした状況の中にあっても、昨年のラグビーワールドカップや、先の東京都知事選、そして今回のオリンピックを見る限り、このような教育現場の無関心を通じて育った者たちでさえ、まだまだ日本人としての誇りやアイデンティティは力強く息づいていると率直に感じます

我々の育った現在の日本は、健全な愛国心を示す右左の中央軸が、だいぶずらされているのではないでしょうか
彼らは思考という見えない領域に足を忍ばせて、昔からあなたを無意識のうちに彼らの価値観の中に縛り続けているのです。
信じますか信じませんかはあなた次第です。

ではまた次回。