開成、筑駒からノーベル賞が出ない理由

2021年10月17日更新:

エコノミスト・ザ名門校

 今年も日本人がノーベル賞を受賞しました。

がだし、東京の名門中高一貫校からの受賞は今年もお預けとなりました。

2017年発売の週刊エコノミスト『ザ・名門高校』には名門校たる所以とともに、首都圏の中高一貫校からノーベル賞受賞者が出ない理由が示されています。

今回は、この雑誌の記事を通して見た、東京で生まれ、進学することの意味について考えてみたいと思います。 

都内の受賞者は日比谷高校のみ

 日本のノーベル賞受賞者は(中略)累計25人となった。
25人の出身高校に注目すると、東京都内の高校を卒業したのは、利根川進ただ1人だ。都内には、国公立、私立の進学校がひしめいているにもかかわらずだ。

 日本のノーベル賞25人(雑誌発売当時)の内、都内高校卒業は日比谷卒の利根川博士1人だそう。

この事実が確かなら、都立の学校群制度以前から、東大合格トップ10の大半を独占してきた都内の高校からの受賞者が少ないのは不可思議な現実のように思います。

現在最高偏差値の生徒が集うと目される筑波大附属駒場高校については、戦後創立した歴史の浅い学校のため仕方ないと言うにしても、日比谷と共に明治時代から日本の近代国家の夜明けを支え、東大合格ナンバーワンが今年で36年連続となる開成高校や、50年以上東大合格トップ10から陥落したことがなく、偏差値や学力主義的な立場とは異なる柔軟な発想の生徒が多く所属するイメージを持つ麻布高校、また日比谷と共に開成・麻布の台頭よりも古くから東大上位の常連で、国立屈指の伝統校であり、悠仁親王の中学進学問題で話題となった筑波大附属高校などからの受賞実績がない点は不思議に映ります。早稲田、慶應もまた然りです。

利根川博士が日比谷を卒業したのは1958年。
ノーベル賞は1987年、卒業29年後の48歳で若くしての受賞ですが、70歳前後での受賞であれば高校卒業から50年程後のことです。

1963年に初めて東大トップ10に登場し、今年ちょうど創立70周年となる筑駒を含めて、どの進学校からの卒業生が受賞してもおかしくない時期に既に突入しています。

記事ではこの状況について、次のように断定的に述べています。

つまり、未知の分野をブレークスルーした世界的な研究者は、地方の高校出身者が占めているということだ。いわゆる「都会の進学校」を卒業しても、殻を破れないことは、歴史が証明している


そして日比谷を卒業した利根川氏もまた、実は生来の東京育ちではありません。 

名古屋で生まれ、小学校から中学1年生までは富山県大沢野町、中学2年生までは愛媛県三瓶町在住。中学2年の終わりに、愛媛から兄と二人きりで東京に越したのです。

教育と進学について心配した母のはたらきで、大田区雪谷町に住む叔父の家に下宿し、大田区立雪谷中学校に通ったのです。

利根川氏は、裕福ではない地方の苦労人であることが伺えます。そういう意味では彼もまた、根っこの部分は地方出身者に違いありません。

そして特集には記載がないものの、もう一つの重要な情報は、中学ではトップが当たり前だった利根川氏も、日比谷高校では半分から上、良くても上から3分の1程度の成績だったという本人の言葉。現在でみると、100番台が精いっぱいといったところでしょうか。決して青年期を神童として過ごしたわけではないようです。

日比谷に限らず、東京には文系理系問わずできる生徒が今も昔も大勢いるはずですが、結局現在まで、東京の高校からのノーベル賞は利根川博士ただ一人なのです。

資本を効率よく転がすことがスマートで偉大な存在と讃えられる今の世の中にあって、都会で生まれ育った少年少女にとっては、蝉のように陽の目を見ずに過ごす時間の長い基礎研究世界で生き続け結果を出すことは、難しいことなのでしょうか。

身近な東大生の低いモチベーション

 記事では東京の高校からノーベル賞受賞者が出ない理由を、東大生について開成高校校長が語る次の言葉に求めています。

大学ではいわゆる「燃え尽きた学生」「冷めた学生」となる。大学合格を「ゴール」と勘違いするか、高校時代までと環境が変わらないため、大学で熱中するものを見つけられないタイプだ。
情報処理能力や要領のよさは折り紙つきで、官僚や会社などの組織を動かす上で一定程度必要な人材なのは確かだろう。しかし、秀才だが画一的になりがちなのも突破力のない要因だ。

自校の卒業生に対し「冷めた学生」と評価する姿勢はいかがなものかと思いますが、教育者としての冷静な分析からくる偽らざる実感が込められているのでしょうか。

この言葉を疑似体感すべく、東大五月祭に行ってきました。

f:id:mommapapa:20170523203007j:plain

正門から安田講堂にかけての大群衆。

帝国大学当時からの面影を残した校舎やキャンパスを歩きながら、最高学府に足を踏み入れる感慨と同時に、確かにある種の冷めた感覚を覚えました。

これが三四郎のように、田舎から上京して初めて訪れた場所であれば、意匠重厚な建築が醸し出すアカデミックな空気やその場の雰囲気に圧倒されたことでしょう。

私自身も大学と言えば、遠方から下宿して通う場所というイメージが今でもあります。

ところが現在わが家にとっての東大は、電車一本で正門にたどり着く、ある意味日常の延長線上に位置する存在。その気があれば、ランチのために気軽に立ち寄ることができる場所。

学生の頃にあれほど輝いて見えた早稲田や慶應も、今では同じような身近な存在です。かつて地方に暮らしていた高校生時代とは、その価値が全く異なります。

一方、上京した地方の高校出身者は、全く違った新たな環境で、大学生活を始める。夏目漱石の『三四郎』や、五木寛之の『青春の門』で描かれる、地方出身者が東京で新たな刺激を受ける姿の通りだ。

確かに安田講堂は、イチョウ並木を抜けて最高学府の象徴たる威風堂々とした姿を現わすその瞬間から、地方から上京して訪れた者に対峙する際には、壮大で圧倒的な存在として目の前に現れることでしょう。

古臭い言葉かもしれませんが、銀杏並木に立った時、立身出世を目指して坂の上へと続く階段を駆け上がろうという、決意に満ちたモチベーションが溢れ出すことでしょう。

その一方で、都内の中高一貫進学校を卒業した学生にとっては、長年顔を突き合わせたクラスメートが集う高校時代の延長の場所。

自宅から通い、受験という重圧がなくなってむしろ楽になっている。
高校時代はみんな夢を持って、自分で人生を選んできた。そのため大学がつまらないと感じ、熱中できない。

小学校から9年間も続く長き受験競争を経て東大に入学した一貫校の生徒の多くが、無我夢中で働いてきたビジネスマンが退職後に味わう燃え尽きた感情を、最も将来の夢に輝くべき10代の後半に、早くも経験するのでしょうか。

地方出身と東京出身者の意識の違い

   私自身、大学入学から結婚まで、10年ほど一人暮らしの経験があります。社会人として独り立ちするまでに、地域の全く異なる3都市で一人暮らしを経験しました。

中学に入るころから、異性への関心を除いては、とにかく早く家から出ることと東京で暮らすことばかり考えていましたので、親と暮らし続けることに抵抗を感じない今時の子供に対しては嬉しいような物足りないような、いずれにしても、自分の青春時代の青年像とはだいぶ異なるという感覚を持っています。

この点は、都心で暮らす若者だけではなく、地元志向が強まる現代の若者全体に当てはまる心理なのかもしれません。

そんな私が、かつて東京で暮らすようになって最初に実感したことは、東京と地方とでは全然違うということ。何が違うかといって、何もかもが違う。

東京で生まれ育った人間は、日本の現状を知る機会に恵まれていない。

いつもそう感じながら暮らしていました。その点は今も変わらず思います。

10代の頃、東京に出たいという強い思いと同時に漠然と抱いていた感情は、東京に生まれ育った子供たちは、生まれた時点で既に地方出身者が追いつけないような文化的、教養的アドバンテージを持っていると同時に、自分の殻を破るためには、外国に出るしかないだろうという感覚です。

そして今回の雑誌の特集を読んで思う事は、高校を卒業する頃に感じたその東京人の持つアドバンテージへの羨望が、実は逆に東京人の憂鬱とでもいうべきフロンティアの喪失を生み出していたのではないかという戸惑い。

冷めることで、自分だけでは如何ともしがたい喪失感を、無意識のうちに心の内で昇華しているのかもしれません。

近代日本の日比谷先輩諸氏

 ここでは雑誌の特集記事の中から、偏差値や大学合格数といった受験産業的な視点とは異なる社会的集計を、記事の中から簡単に紹介したいと思います。

1.名門高校「三冠王」
  • ノーベル賞
  • 首相
  • 金メダリスト

筆者いわく、この3部門の人材を輩出するのが名門高校三冠王なのだそうです。

そしてこの実現困難と思われる三冠を達成している高校は、実は全国で2校あります。

  • 日比谷高校
  • 横須賀高校

どちらも公立高校です。日比谷の三冠は、

  • ノーベル賞: 利根川進(医学生理学)
  • 首相: 阿部信行(戦前)
  • 金メダル: 西竹一(ロス五輪馬術障害)

この中で何といっても興味深いのは、映画『硫黄島からの手紙』にも登場するバロン西こと西 竹一でしょう。

西洋社会も一目置き、ロサンゼルス名誉市民でもあるこの先輩は、現在からみても本当の意味での国際人だった人物ではないでしょうか。何処となく白洲次郎や南方熊楠といった人物像に重なります。

そして彼は日本馬術界にとって、現在に至るまで唯一のオリンピックメダリストです。

正直、東京大学に毎年何百人合格するよりも、西男爵のように歴史や時代を代表する魅力のある人物が卒業生として並ぶ方がおもしろい。同期には小林秀雄がいるなど、往年の日比谷ならではの豪華な顔ぶれが並びます。

2.文化勲章

 1位(23人) 日比谷
 2位(14人) 開成
 3位(11人) 洛北(京都府立)
 4位(  8人) 銅駝美術工芸(京都市立)
 5位(  5人) 両国(東京都立)

こちらも日比谷高校が、頭一つ抜けています。
そして気になる雑誌の指摘としては、開成高校は東大合格者が伸びた戦後の卒業生の受章者は、2010年に受賞した、演出家の蜷川幸雄だた1人という指摘。

もしこの状況が、大学進学実績が伸びたことに起因する結果だとしたら、少し悲しい気がします。

3.経団連会長

 1位(4人) 日比谷
 2位(2人) 半田(愛知県立)
 3位(1人) 京華(東京私立)、関西(岡山私立)、錦城(東京私立)、新潟(新潟県立)、松坂工業(三重県立)、小山台(東京都立)、甲南(兵庫私立)


その他の指標の内、日比谷高校からの人材輩出がないものとして、「4.戦後首相」、「5.日銀総裁」が挙げられています。

いずれにしても気がつくのは、特集で取り上げられた5つの指標に登場した計118名を輩出したのは、公立高校を卒業した人材が圧倒的に多いということ。

  • 公立高校 90名(76.3%)
  • 国立高校   3名(  2.5%)
  • 私立高校 25名(21.2%)

ただし、こうした社会的なトップと目される人材は、現在1950年代~60年代に高校を卒業した者が大部分であり、その頃は都立全盛の時代。

118名中、筑波大附属駒場から唯一登場したのは、現日銀総裁の黒田東彦氏。

1960年代、都立学校群制度が始まる前の高校卒業ですから、これから1970年代卒業の過渡期を経て、今後は開成や筑駒といった都内中高一貫校の人材が社会の主要ポストを占めるような状況が到来する可能性を示唆した変化なのかもしれません。

そしてそれを予感させる如く、2021年開成悲願の岸田総理が誕生しました。

半世紀の歴史の流れの中で、新興勢力が台頭したり伝統校が凋落したり、波が満ち、そして引くように、学校も時代の流れと共に諸行無常の響きの中で大小の盛衰を繰り返すのでしょう。

個人的には、どの高校が上だとか下だとか、そういう局部的なプライドの衝突に目を奪われるのではなく、我々が生きる日本語の世界観が、引続き世界の中で継続し、輝く世の中を現在の中学高校生にも実現してほしいと願います。

都立全盛の時代を引き継ぐように、次の半世紀の日本の未来を、是非東京の中高一貫校の卒業生に支えてほしいと思うのです。

この日比父ブログも、これからの時代を担う若者の集う等身大の姿や東京の教育事情について、引き続きお伝えしたいと思います。

ではまた次回。

 大学よりも高校が物を言う時代

伝統公立高校のぶれない学び

変わりゆく東京大学

学校群制度導入50年の足取り

 大先輩漱石の思い出