大学共通テストカンニングと東大入試

2022年1月27日更新:

共通テストカンニング疑惑:画像出典JNN

共通テストカンニング疑惑:画像出典JNN

 令和4年2022年度の大学入学共通テストで発生したカンニング疑惑。

大学入学共通テストで試験問題が流出した疑いが浮上しました。“女子高生を名乗る人物”が試験時間中に問題を撮影して流出させた疑いがあり、警視庁が偽計業務妨害の疑いで捜査を始めています。

出典:TBS NEWS 2022/01/26

回答する大学生と事前にコンタクトするなど、準備期間も含めて用意周到な計画的犯行といったところですが、実は過去の入試においても同様に、ネットを経由した試験当日の大胆なカンニングが発生しています。

京大入試投稿カンニング事件

 今回の共通テストやAI時代のこれからの教育の在り方を考える上で、一つの検証事例となるのが過去に京都大学入試で発生したネットカンニング事件です。

2019年の東大五月祭に開催された「五月祭教育フォーラム」で取り上げられたこの事件の概要は概ね以下の通りです。

2011年の京大入試において、試験時間中に受験者が携帯から「Yahoo知恵袋」に問題を投稿し、第三者が回答したというものです。

例えば英語の試験の場合、以下の通りです。

京大入試事件/画像出典:Yahoo知恵袋

京大入試事件/画像出典:Yahoo知恵袋

現在の常識から判断すると、このような行為は社会を揺るがす不正事件ということになるでしょう。

従って、スマホや携帯の持ち込みは不可。アップルウォッチなどの普及によって腕時計の使用も禁止という状況が発生しているようです。

辞書や参考書の持ち込み不可、という従来の価値観の延長線上にある判断基準です。

フォーラムの会場では、近年のウェアラブル端末の飛躍的な進歩によって、今後は試験中に眼鏡も禁止、服を着るのも禁止にするのか?という登壇者の発言で会場に笑いが起きました。 

そもそも生体内にメモリチップを埋め込む事が特別でない時代が既に到来している今、もはや辞書や端末の持ち込み禁止という発想自体が、一世代前の陳腐な考え方にならざるを得なくなるのではないでしょうか。

AI時代に求められるリテラシー

 京大カンニング事件については五月祭のフォーラムで初めて知りましたが、その事件の概要を聞きながら、むしろ当事者の対応能力に感心しました。

大学入試の本番中に、携帯で問題長文を正確に打って発信する精神力や技術力の高さもさることながら、実際の投稿画面を見ると、

「よろしくお願いいたします。」

という敬語表現から、絵文字で

(__)(お願いします)や

(^-^)/(ありがとう)

といった細やかな感情表現まで違和感なく対応しています。

普通でも緊張するはずの入試本番において、しかも試験官に指摘されれば明らかに不正だとみなされる状況の中においての対応です。本当に入試会場からそれらの情報を発信したのであれば、そのデジタル・リテラシーの高さや大胆さと言ったらどれ程のものでしょう。

この話で面白いのは、事件における不正行為は、「先の見えない時代に生きる力を身に着ける」という、現在進行中の教育改革においては、むしろこれからの学びとして求められている能力そのものだということです。

それはつまり、未知なる問いに対してICT(情報通信技術)を活用し、第三者と協業しながら必要な方法を導き、問題を解決する能力、リテラシーです。

現代の『リテラシー』という言葉の定義には、いつの間にか既にICTの活用という意味が含まれています。

リテラシー(literacy)

1)読み書き能力。また、与えられた材料から必要な情報を引き出し、活用する能力。応用力。

2)コンピューターについての知識および利用能力。

3)情報機器を利用して、膨大な情報の中から必要な情報を抜き出し、活用する能力。

出典:デジタル大辞泉

これは正に、カンニング事件を起こした学生を支えた能力そのものです。この受験生の行為を肯定はしませんが、もしかすると時代を先取りしていたのかもしれません。

今後の義務教育の現場では、この日の不正行為を再現するように、第三者と情報を共有しながらタブレットを駆使して情報を取得し、整理活用するという能力が重視されるようになるのでしょうか。

そして今回の共通テストカンニング疑惑では、犯人は事前に教育サイトを通じて協力者を募り、試験本番では状況に応じて計画を柔軟に変更するという企画力や計画力、および実行力の高さを示し、改めてこれからの教育の在り方について社会に問題定義をつきつける形となりました。

スマホは現代のR2-D2

 子供の頃からスター・ウォーズを見るたびに、R2-D2のような個人支援ロボットがいればいいなと思ったものです。

でもいつの間にか、我々はそんな個人コンシェルジェのようなロボットを手に入れてしまいました。スマホです。

R2ユニットと異なるのは、自走したり便利なアイテムをボディーから繰り出して、ご主人様をサポートしないことくらい。でも逆に、ポケットやカバンに入れてどこにでも連れて歩けるという、自立型ロボットとは違った利便性もあります。

今後SiriのようなAIが更に賢く進化するにつれ、人間が知識学習することの意味も変わるでしょう。引き続き知識の取得が必要な場合でも、生態チップが体内に埋め込まれ、必要に応じてデータを更新するような世界が実現することは遠い将来ではないでしょう。

そして、スマホが個人コンシェルジェであるという認識が世の中に浸透する未来には、わが子の誕生や小学校の入学の記念日などに、両親や親族がその子を見守り寄り添う人生のパートナーとなる専用端末を子に与えるという習慣が、社会に定着するのではないかと想像します。

そして成長や生活環境に伴い、スマホをアップデートしたり買い替えたりする。

そのような社会では、ICTデバイスを如何に使いこなすか、あるいは端末の基本性能が如何に高いかということが、個人の学力、すなわち試験の得点や偏差値を裏付ける指標になるかもしれません。

それはすなわち、学習そのものや入試のあり方も変わるということです。

AI時代の東大入試

 個人的には、大学入試ともなれば、何を持ち込んでもよいという試験にすべきではないかと思います。少なくとも東京大学はそうであってほしい。

教科書や参考書はもちろん、スマホの持ち込み利用も可能。試験前にWi-Fiの接続確認を行うという状況があってもよいかもしれません。

敢えて注意といえば、携帯での通話や音の出る設定はご遠慮下さいというところでしょうか。

その上で、東大入試にふさわしい能力を試す入試問題が出題される。

ICT端末の持ち込みも可能、何を参照してもよいという時代の大学入試は、どのようなものであるべきなのでしょうか。少なくとも、頭の中に定着した知識を確認し運用することを問う、狭い知見に基づいたものではなさそうです。

もちろん、現状の大学入試制度がいきなり変わるとは思いませんが、現在および2020年以降の入試制度においても引き続き有効とされる先取り学習が、あまり意味を持たなくなるような入試問題であって欲しいとは思います。

人より早くスタートするのが入試を有利に進める必勝法になりえる状況というのは、そもそも入試問題の在り方に問題があるということもできるのではないでしょうか。

ですからスマホやタブレットはともかく、東大入試では全教科について、教科書や辞書参考書類は持ち込み可能という入試であってよいのではないかと思います。

そうすることで、というよりはそうしてこそ初めて、東大アドミッション・ポリシー『入学試験の基本方針』第三として記載のある、

第三に、知識を詰めこむことよりも、持っている知識を関連づけて解を導く能力の高さを重視します。

東京大学は、志望する皆さんが以上のことを念頭に、高等学校までの教育からできるだけ多くのことを、できるだけ深く学ぶよう期待します。

「知識を詰め込むことなく持つ知識」という前提に多少の矛盾や違和感を感じつつも、辞書教科書が持ち込み可能という状況を想定することで、知識の運用というこの方針が矛盾なく具現化されるように思います。

AI時代の新たな学び

 シンギュラリティは到来しない。
これは「ロボットは東大に入れるか」プロジェクトリーダの新井紀子女史の言葉です。

AIはコンピューターであり、コンピューターは計算機であり、計算機は計算しかできない。
それを知っていれば、ロボットが人間の仕事をすべて引き受けてくれたり、人工知能が意思を持ち、自己生存のために人類を攻撃したりするといった考えが、妄想に過ぎないことは明らかです。
出典:AI vs. 教科書が読めない子どもたち
新井紀子 著

AI時代に求められる学びとは、予測不能な時代に予測可能な妥協点を見出し納得することよりも、むしろ予測困難な状況で発生するリスクを好機の到来として前向きに楽しみ、結果はともあれ挑戦する経験の中で獲得されるものなのかもしれません。

それは子供たちにとっては、今も昔もそして未来においても、教科書や参考書の表面的な知識の上にではなく、遊びにおけるコミュニケーションを通じた協業、対立、ジレンマといったリアルな体験の中で育まれるのではないかと思います。

東大入試がスマホ持ち込み可能となる将来、子供たちの学びの姿とは、机に向かった従来の学習法式ではなく、むしろ現在わが家の小学生の次男が夢中となっている、ネットゲームを通じた友達とのミッション解決に近いのかもしれません。

既にお隣の中国では、加熱する受験競争への鉄槌として、受験産業が国策により強制終了させられるという事態が発生しています。

令和の時代の学びの姿とは、今後どのようなものになるのでしょうか。

ではまた次回。