デジタル社会とIT後進国の未来

デジタル社会の到来

 新型コロナの登場で社会構造の変化を余儀なくされる中、日本がIT後進国である事実が広く露呈した感があります。

10万円の特別給付手続きで、オンライン申請を行政職員が目視でチェックしていたり、書面申請の方が処理が早いという珍現象や、学校授業のICT対応の遅れ、直近ではユニクロのマスクを購入するために驚くほどの列を成す消費者の姿を見ていると、新しい社会の到来にはまだまだ時間がかかると感じます。

そのような中、6月19日には法務省が契約書のハンコ不要の見解を示し、文科省は中学校へのスマホの持ち込みを容認する方針を打ち出しました。

コロナという不可視で不可避の外圧の登場により、国も国民も自らIT後進社会であることを自認し焦りだすと共に、アナログ社会の規制が崩れ始め、積極的に生活のデジタル化を進める地合いが形成されつつあることがうかがえます。

 

昭和人のデジタル社会への抵抗感

 Society5.0やAIの登場、あるいは電子マネーやIDカードの普及など、社会のIT化といえば夢の世界の実現のようなイメージが伴いますが、私自身はマイナンバーカードを持つことには強い抵抗感があるため10万円の特別給付金は迷わず書面で申請し、買い物の際も煩わしいと思う反面今でも現金で決済を積極的に選択する方ですし、スマホの位置情報は常にoff、アプリも必要最小限、icloudのようなクラウド保存領域も利用しないという、オールドタイプのアナログ人間を自認しています。

スマホの位置情報をonにしないのは、目的地検索その他の便利機能を活用するよりも、個人の行動履歴を把握されたくないという気持ちが強い点に加え、いつか携帯のGPS目がけて人知れず超小型の殺傷兵器が飛んでくるのではないかという、都市伝説や陰謀論の領域に近い恐怖心が消えないためですし、icloudのようなインターネット領域に写真や個人情報を保管しないのは、第三者に該当情報を制限なしで渡すことと同義ではないかという疑念が晴れないのと同時に、登録情報に基づき生成されたもう一人の私自身が、本人の知らない間にネット上を闊歩するのではないかというSF染みた恐怖を感じるからです。

ですからブルートゥースの利用とはいえ、コロナ接触確認アプリも携帯にインストールする気にはなりませんし、ペイペイその他の電子決済も、還元率を高々と謳われても利用するにはやはり抵抗を感じます。

とはいっても、SUICAやPASMOといった比較的早い時期に導入された鉄道系電子決済には後戻りできない利便性の高さがあるのは事実ですし、店舗のレジについても本来全て電子決済にすべきであることは容易に理解ができるのですが、旧東京オリンピックや旧大阪万博の時代に生まれた身だからでしょうか、最終的には体内に生体チップを埋め込むことになる未来の社会には、利便性よりもやはり管理されることに対する強い抵抗感が先に立ちます。

 

IT先進国の中国?

 例えば、全国民の顔認証管理や無人店舗といった大胆なIT化で話題となるお隣の中国ですが、ビジネス上の経験からすると、2000年初頭の段階で、金融や商業広告や教育分野などは日本よりも既にIT化が20年くらい進んでいた印象があります。

要するにその分野の今の日本の状況が、当時の中国の状況といった感覚です。

初めて出張に訪れた際、社会全体としてまだまだ日本よりかなり遅れている第一印象を強く感じたのは事実ですが、それでも当時から銀行ATMは24時間稼働、タクシーやマンションや街のいたるところにデジタルサイネージ広告が散りばめられており、社会主義経済の国というよりは行き過ぎたマネー至上主義国家のような印象さえ受けました。

教育分野でも、10年以上前のことですが、中国での取引を進めるために業務上取得が必要だった中国国内の資格試験において、当時既に全国一律のCT(コンピューターテスト)が普通に実施されていることに素直に驚いたことを覚えています。

その際面白いと感じたのは、与えられた試験時間の中で早く回答が終わればその時点で自ら採点ボタンを押して直ちに結果判定が下されると共に、合格点に達しない場合は残りの試験時間を利用して、何度でも試験を続けることができる仕組みだったことです。

現在では日本企業でも、Eラーニングの確認テストなどでこうしたデジタル試験が一般的ですが、行政の合理化対策としても運転免許試験や各種国家試験など、現在マークシートで実施されている試験の全てはこのCTで実施可能なはずです。

中国でCTが進んだ背景には、国土が広大で人口も莫大、不正も蔓延するようなお国柄、日本のように均質なペーパーテストの運用が難しいというネガティブな事情への解決策として発達したのではないかと個人的には想像しますが、日本ではしっかりとした運用体制が整っていたために、逆に雇用の確保という問題も含めて試験等のデジタル化が進まなかったのではないかと感じます。

もちろん社会のデジタル化の裏側には、国民に対する監視社会と表裏一体の世界が隠れていることも周知の通りであり、IT化やデジタル化の進歩が必ずしも幸福な社会の実現とはイコールではないこともまた確かです。

社会のデジタル化は、コロナのような非接触社会が求められる局面ではあるべき優れた技術であることは確かですが、人が人として個人の尊厳をもって生きるという視点から見ると、大いに憂慮すべき落とし穴がそこかしこに隠れており注意が必要です。

 

IT後進国と香川県ネット条例

 日本がIT後進国であるという話題を聞くたびに思うのが、コロナ危機の到来と時を同じくして香川県で制定された「香川県ネット・ゲーム依存症対策条例」です。

この条例が成立したのは、既に新型コロナによる休校が始まっていた2020年3月18日。

県会議員にとっては全国に先駆けて制定した先進的条例なのかもしれませんが、一般の親としてみれば、これ以上ない悪いタイミングで成立した条例という印象が強いです。

折しもニンテンドースイッチが爆発的に売れ始め、一日中家に籠ってあつ森ソフトで遊ばざるを得ない状況が生じた矢先に、18歳未満の子供たちに対してだけゲームや動画視聴の合計時間は平日1時間以内と制限をかけるのは、政治家に必要な社会の変化を先取りする資質以前に、現に目の前に生じた変化さえ感じることができていないのではないかと言わざるを得ません。

香川県の青少年は24時間自宅で待機する短くはない時間の中で、その規制された1時間以外に、どのような活動で日々過ごすべきだというのでしょうか。

ネトゲ条例は、日本がなぜIT後進国であるのかという理由に対し、祖父母世代の人間が地域社会の中心存在として社会の方向性の舵取りしているという要因の一つを分かりやすい形で浮かび上がらせた点で、記念碑的な指標の一つだと感じます。

 

デジタル化社会と人間社会

 おそらくコロナは自然発生的な現象なのだと思いますが、デジタル社会や非接触社会の形成を実現するために計画されたお伽話だと仮定すると、話の筋が通り過ぎていて恐ろしいです。

いずれにしても、コロナで決定的に思考の書き換えが行われた我々日本人は、今後否が応にもIT化された社会への道をまっしぐらに進んでいくでしょう。

私自身は先に記載した通り、便利とは理解しつつも極端なデジタル社会に対する抵抗感は根強くあります。

その感覚は、昭和のよき想い出を集めたアンソロジーであり、アナログ世界へのノスタルジーといった感傷主義的な気持の表れであることは十分理解しつつも、それでも利便性の裏に潜む危険性への危機感を完全に拭い去ることはできません。

そしてその感覚とは矛盾していることが明らかではあるものの、子供たちにはむしろ積極的にデジタルデバイスを与え、これから訪れる変化の波に自らの足で立つことができる技術を遊びの中で取得することを期待している自分がいることも確かです。

その結果弊害として生じる長すぎる子供のネット環境との関わりに対しては、その事実を嘆くよりも、今はまだリアルな世界で生きることができる幸せに感謝すべき時なのかもしれないと思いながら、日々変わりゆく世界を眺めています。

悪化し続ける地球環境の中で、もしかすると将来、デジタル情報を頼りに生涯を屋内で過ごすことを余儀なくされるような悲観的な未来が来ないとも限らない中で、子供たちにとってデジタルデバイスとの最適な距離感がどの辺りにあるのか、いま親として生きる我々に課せられた明らかにすべき宿題であるのかもしれません。

日本社会のIT化やデジタル化はどの程度のスピード感でどこまで進むのでしょうか。そして次男が社会人となる10年後には、世界はどのような状況にあるのでしょうか。

この先の変化をまだまだ見届けなければなりません。

ではまた次回。

 

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