オーケストラが響く日常の幸せ

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写真出典:中野ZEROホームページ

 10月10日に日比谷高校フィルハーモニー交響楽団の定期演奏会に行ってきました。

コロナ自粛が始まって以降、初めてのフルオーケストラの生演奏です。

先週東京オペラシティで、コロナ後初のソプラノコンサートを鑑賞したのに続き、芸術に親しむ秋の週末となりました。

舞台芸術にとってあまりに長かった自粛期間も、少しずつ日常を取り戻しつつあることを素直にうれしく思います。

 

威風堂々と

 演目を確認せずに着席したために、指揮者が舞台に上がり、構え、音が響くその瞬間までどのような楽曲が奏でられるか知らずにいましたが、初演に選ばれたのはエルガーの『威風堂々』でした。

最初の1音が力強くはっきりと鳴り響くのを聴いた瞬間、みんな練習不足であるはずの中で、しっかりとした音を出すことができたことに感動し、同時に再び大ホールでの演奏会を聴くことができる喜びに感謝しました。

妻はこの曲を聴いて、長男の高校時代の入学式と卒業式を思い出すなど、また別の想いに浸っていたようです。

日比谷高校の入学式や卒業式では、オーケストラ部の威風堂々の生演奏による生徒の入場が定番となっており、久しぶりに聞くその響きに、集まった他の卒業生の保護者の方々も、同じ想いを抱いていたようです。

その日の威風堂々は、その名の通り、まるでコロナ禍の状況に決して負けないという、高校生の宣言のような力強さがありました。

この曲を最初に置いたのは、おそらくは楽団の誰もが演奏し慣れているという理由もあったかと思いますが、逆境に負けない気持ちを前面に出す意味において、また長い間本番を経験できなかった奏者が自らの手足の動きの感覚を取り戻す意味において、非常によい選曲だったのではないかと思います。

聴衆の側も、この耳慣れた響きを大ホールの中で自らの鼓膜の響きとして確認することができた喜びを、暮らし慣れたかつての日常生活を再び取り戻すことへの希望を、しっかり噛みしめながら流れる音と時間に身を委ねていたのではないかと思います。

学生オーケストラの演奏を鑑賞する際には、楽曲全体を楽しむという以上に、特定のパートや奏者の音や表情に注意が向きがちになることが多いですが、この日は1音目の確かさからか、あるいは知った顔が限られる状況である気楽な立場からか、久しぶりのフルオーケストラの喜びからか、素直に演奏を楽しむることができました。

音楽の力を久しぶりに思い出すよい演奏となりました。

トランペットの力強い響きとフルートの柔らかな調べ、そして日頃は目立たないはずのビオラを引く女子学生の会心の笑顔と、初めての大舞台で音を出してよいものかどうか、恐る恐る弓を引く新入生の初々しさが印象的な演奏会でした。

 

新しい日常生活の中の音楽

 長男は中学から音楽系の部活やサークルに属しており、東京大学でも学問とは別に、継続して日々音楽に関わっています。

新型コロナの影響で、オーケストラ編成だけでなく、パート練習もままならない日々が続く中で、逆にわが家の中には日常的に音の響きが生まれました。

練習のために、楽器を持ち帰ってきたからです。

わが家は狭小住宅であるにもかかわらず、玄関の土間にアップライトピアノが設置してあります。ピアノが置けるぎりぎりのスペースしかない空間ですが、それでも玄関から上がりにかけて二坪に満たないような最小限のホールを構成しています。

玄関先から二階に伸びる階段に腰を下ろすと、ピアノを見下ろす一列限りの座席が上階まで伸びる作りになっており、個人的には小さな発表会も可能な世界最小の音楽ホールではないかと密かに考えています。

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画像出典:YAMAHAホームページ

わが家のピアノは海外赴任先で格安で購入し、赴任中長男の習い事として活躍し、そのまま帰国の際に大変な苦労と共にわざわざ個人手配の船便で運んできたのものですが、今では弾き人知らずのまま玄関の飾りとなっている代物です。

今にして思えば、何故弾きもしない安物の中古のピアノをわざわざ海外から高いお金をかけ、狭い家の中に収めようとしたのか疑問に思ってもよい状況ですが、不思議とそのような懐疑的な気持ちが暮らしの中で生じることはありません。

狭小住宅の玄関にピアノがでんと構える姿は、居住スペースの確保という観点で見た場合には無駄以外の何物でもない活用されないスペースなのですが、同時に玄関に最小限の機能だけを求めがちな都市部の住宅の中にあって、暮らしに心のゆとりを感じる空間でもあり、狭い家であっても玄関が広いことは、ある種の豊かさを得るための一つの手法ではないかと感じることがあります。

いずれにしてもこの自粛の続く半年余りの間、わが家の暮らしには、玄関から伝わる楽器の響きが溢れていました。

子が奏でる旋律をリビングで耳にする状況は、何にも代えがたい贅沢なひと時のように感じるのです。

わが子がスポーツで活躍するのを見ることは、親として誇らしく楽しいものですが、子の奏でる音楽に触れながら暮らすということもまた、親としては充実した気持ちになる瞬間です。

新型コロナで生じた不自由な非日常の影響で、本来は触れることのないはずの音の響きに触れることができたのは、子供にとっては不本意この上ない状況であることは確かなのですが、親としては思いがけず訪れた束の間の贅沢な時間という気もしています。

日々の練習で重ねた努力を、次は大ホールの響きの中で表現してほしいと思います。

 

オンライン演奏会での音源編集

 リアルな実施が中止となり、オンラインで開催された五月祭。

長男は所属する楽団の団員が個々に演奏する音源を、一つの楽曲としてまとめ上げる仕事を一手に任されていました。

メトロノームが刻むテンポの下支えがあるとはいえ、大所帯の何十人もの異なる楽器が数分間奏でる一筋縄ではない音源を、一つの演奏として成立させるのは、聞いただけでもなかなか大変な作業ではないかと思うのですが、そうした作業を自宅でずっと続けていたことは、曲が完成し、動画とともに配信が開始されるまで知りませんでした。

どのような経緯で長男がそのような重要な役割を担い、どのような方法でそうした編集方法を学んだのかは不明ですが、今思えば時々ダイニングテーブルで、マック上に現れた謎の編集ソフトをいじっていた事を思い出します。

この音源はネット配信されたことにより、一度限りのリアルな演奏会と比べ、全国のより多くの聴衆に届き、想定以上の評価を受けることができたようですので、ある意味報われた時間になったのではないかという気もします。

これもまた、コロナの非日常が生み出したポジティブな経験の一つではないかと思うのですが、いずれにしても奏者としては、やはり実際のコンサートホールの舞台から届ける音に触れるということを待ち望んでいることは間違いないことだと思います。

 

コンサートホールが再び響き渡る日

 コロナ禍において、個人に格安で舞台を提供するコンサートホールが度々話題となりました。

地元の保護者仲間のピアニストの方も、大ホールを貸し切って単独での練習を行う機会に恵まれたようで、経験したことのないような気持ちの良い時間を過ごしたそうです。

これはこれで意味のある社会活動の一つには違いないとは思いますが、でもやはり、音の広がりを求める者にとっては、大ホールには本来の響きを聴衆に届ける役割を果たしてほしいと思います。

この冬、コロナの感染拡大がどのような広がりをみせるのかは分かりません。

でも少しでも早く、より多くのコンサート奏者が再び舞台で輝ける日常が戻ってくるとよいなと考えながら、しばし高校生のはつらつとした演奏に耳を傾けたのでした。

その音は、活動する喜びと希望に確かに満ち溢れていました。

一日も早く、全てのホールに喜びの響く日常が戻ることを願ってやみません。

ではまた次回。

 

日比谷フィル歴史の響き

ホールに響く学生の歌声

意味をもつ音の響き~ことば

振動であり意味である言葉