令和三年、2021年あけましておめでとうございます。
2020年は新型コロナに生活を浸食された一年となりました。
半世紀もの間馴染んできた生活常識が一瞬で覆され、不自由さを強要される日常が始まりました。
私自身はよいのですが、特に大学生が社会から抹殺されたかのように不遇な扱いを受けているのを見るのが心苦しい一年でした。人生で最も輝く時間の一つであるはずの長男の大学生活も、制限の多い日々となりました。
そのような中でも腐らずに、現実を淡々と受け入れながら交友を深め、弦の響きを拠り所に過ごす長男の姿に、一人の大人としての無力さを感じると同時に、そのような世界を計画し、実行する人々への憤りがこみ上げる年にもなりました。
特定の個人や団体が、自らの目標の実現と利益を最大化するために、世界中の一般市民を巻き込むような迷惑を意図的にばら撒くのは本当にやめてほしいです。
有史以来、そうした構図が全く変わっていないどころか、科学の力でますます迷惑さ加減が大きくなっており本当にうんざりです。人を付き合わせるのであれば、地球温暖化や多様性社会とか、せめてそいういう欺瞞だけにしてほしいです。
そして年が明け、例年通り長男と次男と共に地元の氏神様に初詣に出かけてみると、冬空の下、毎年参拝までに一時間以上待たなければならない参道からは松明の光も人影も消え、待つことなく拝殿に向かうことができ、世の中が変わってしまったことを改めて痛切に感じる年明けとなりました。
外宮の闇の中へ
何の縁あってか、2020年の年末に伊勢に出かける仕事ができましたので、ついでに休暇を取って伊勢神宮の参拝に向かいました。
仕事が終わり、伊勢市駅前の居酒屋で食事をしている際に、地元の方から次のような話を教えていただきました。冬至の前後一ケ月程の期間は、朝7時半頃に宇治橋から昇る旭日を見ることができるということです。
もしかすると一生に一度の機会になるかもしれないと考え、夜の飲み歩きは封印して早朝から伊勢詣でに出かけることにしました。
日本と世界の安寧を願うためです。
7時半前に内宮宇治橋に到着するために、早朝6時49分に外宮前から内宮行のバスに乗ることにしました。
太陽を拝むために、伊勢市方面からちょうどよい時間帯のバスはこの一本しか運行がないからです。
このため朝4時半に目覚ましをかけ、5時半に先ずは外宮への参拝に向かいました。
伊勢市前のホテルから外宮まではよく整備された参道商店街を歩いて一本道で、10分も歩くと外宮前の大きな灯篭に到着するのですが、なにせコロナ禍で観光客が少ない上に夜明け前ですから殆ど人の気配がありません。しかも辺りはまだ真っ暗です。
詰所にいた警官に尋ねると、その時間でも参拝可能ということですが、とにかく辺り一面真っ暗な中を鳥居を抜けて神々の杜の中に入っていかないといけませんので、恐れというか畏れというべきか、暗闇の中に足を踏み入れることに躊躇を感じるほど漆黒の闇に包まれた静寂です。
この抵抗感は屋久島の縄文杉を目指す登山者が、バスを降りて暗闇の中、いざトロッコ道に足を踏み入れようとする際の一歩を踏み出す際の決意にも近いものがあります。
違いは、屋久島の場合はそれなりに人の気配がある中で、しかもヘッドライトを装備して未知の暗闇に進む勇気であるのに対し、伊勢の杜では人影のない中で、照明も何の装備も持たず、明らかに日常とは一線を画した異空間の広がる結界の向こう側に足を踏み入れる勇気が求められることです。
それでも月明りと、ところどころ灯される灯篭を頼りに歩みを進めます。
息が白い寒空の中、満天の星と杜の静けさに包まれながら、目が慣れるにつれ不思議な安心感と充実感に包まれます。
夜明け前、一時間ほどかけて外宮の神々に日頃の報告を行います。
正宮 豊受大神にはじまり多賀宮、土宮、風宮と回り、火除橋に戻るころにはうっすらと夜が明け始めます。
内宮大鳥居の日の出
外宮参拝を終え、バスで内宮に向かいます。
猿田彦神社前でバスを降り、そこから歩いて内宮へ歩いて向かうことにしました。コロナの朝のおはらい町通りとおかげ横丁には、やはりほとんど人影がありません。
人のいない街並みの風情を楽しみながら、ぶらぶら歩いて7時半前に宇治橋に到着すると、そこには既に30人ほどの人だまりができていました。
もちろん、大鳥居の正面から上る太陽を拝むためです。
おそらく冬のこの時期には、毎日多くの観光客が陽の光を求めてここに集まってくるのでしょう。コロナ禍の今年は、それでも人の集まり方が少ないのだと思います。十分ゆとりをもって好きな場所を確保できる程度の混雑です。
宇治橋の正面に陣取って、太陽が昇るのをしばらく待ちます。
この時は7時40分を過ぎる頃から内宮の杜の木々の隙間に、チラチラと黄金色の光がダイヤモンドのように輝き始めました。
そしていよいよ内宮の杜から太陽が顔を覗かせると、経験したことのない光の強さと温かさが体を貫きます。
この時の太陽のエネルギーの力強さと温かさは、生まれて経験する中で一番強いと感じました。
光が放たれたその瞬間、無条件の幸福感に包まれるような不思議な思いを体感しました。
これこそが待ち望んだ光だったのです。
日々の祈り
私は毎日朝食をいただく前に、神棚に手を合わせます。
神棚といっても、小さなお札がやっと入る簡素なお社に、長男が幼稚園の頃にストローで作った鳥居を置いて神棚として利用している程度の略式のものです。
先ずは水を替え、そして手を合わせます。
最初に、生きていることへの感謝、そして家族の守護への感謝です。
続いて、妻と子供たちと、そして自身の日々の安全と生活を感謝します。
そして、高齢の両親への感謝を伝え、末永い健康を願います。
実兄とその家族への感謝を伝え、日々の活躍を願い、妻の両親への感謝を伝え、健康を祈願します。
その後、日本に暮らす人々と様々被災された方々の安寧と幸福を祈ります。
最後に、世界中の人々、地球に暮らす全ての生命、そして地球を見守る存在や宇宙そのものへの感謝と安寧を伝えます。
そして手を合わせた後に窓から太陽に向かい、天照大神の存在を意識しながら太陽の光を瞳に取り込みます。
いつの頃からか、おそらく長男が生まれた後からだと思いますが、少なくとも15年以上は毎日このようなある種のお勤めを日課としています。
私自身は無宗教で特定の何かを信仰しているわけではないですが、それでも日本の神道的な価値観に基づき、自身の独自の世界観や宗教観といったものを頼りにいつの間にかそのようなルーティーンを行うようになったのでした。
宗教的儀式は、ある意味行動制限や一定の時間を必要とするために、例えば朝起きて直ぐに朝食をいただけないなどの制約があり面倒くささを感じることもありますが、自らの存在と生命がこの世に継続することへの最低限の感謝と、家族や周囲が安寧であること、そして日本や日本語、日本的価値観が存在し続け、世界を安寧へと導くことへの願いを込めてそのような行為を続けています。
私自身は社会的地位も財産もたいしたことのない人間ですし、そのような気持ちを天に向かって表明することに何の意味があるのかは分かりませんが、それでもいくつもの感謝と、地球という星の自由と平和がいつまでも続くことを願わずにはいられません。
そして伊勢に昇る太陽は、そうした願いの大本を象徴する希望の光に違いありません。
2021年は2020年以上に、世の中のうねりが大きく現れる年になりそうです。
激動の年を明るく温かく包む太陽の光が、世界のすべての人々にあまねく降り注ぐことを願ってやみません。
受験生の皆さんも、世の中の変化に惑わされることなく、最後の準備に集中できるよう願っています。
ではまた次回。
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