はじめにことばありき
この聖書の言葉を耳にする度に、何故だかいつも特別な気持ちに包まれる。
キリスト教徒ではなく、聖書も読んだことがない無教養な人間であることを自ら認めた上で、いつだろう、それでも初めてこの言葉に接した瞬間から、何故だか宇宙、即ち全ての根源の真理に触れた気がして、それ以来このフレーズが頭や心のどこかに引っかかったまま片時も離れない。
2019年は足元の生活においては令和のはじまりの年であり、宇宙に目を向けてみれば、ブラックホールがはじめて撮影された年として刻まれる。
宇宙はビッグバンからはじまったと科学者はいう。
そして宗教家は、はじめにことばありきという。
宇宙のはじまりがすべての根源のはじまりであるとするならば、宇宙のはじめに存在したのは「ことば」ということになりはしないか。
はじめに存在したことばとは、おそらくは神とか説教という具体的な意味や概念を表す言葉ではなく、ある種のエネルギー、つまり言葉が持つ音の響き、即ち物理現象でいうところの振動や波として表されるエネルギーの一種のことではあるまいか。
言葉は音であり意味である。
音が振動であり波であるならば意味とは何だろう。
人は意味によって傷つき癒される。
意味とは何だ?
文字として記された言葉を、あるいは音として届けられた言葉が、それぞれ視覚的、聴覚的信号として脳に伝えられるのは理解できる。
その先の、その届いた言葉の意味が脳を中枢として個の中に配信され、活力や脱力あるいは愉快や不愉快といった身体的あるいは精神的な影響として現れる。
おそらくは、意味とは知識を含む個や集団の経験の積み重ねではあるまいか。
音は、例えば初めて聞く音楽であっても、何らかの感情や影響を個に与え得る。振動や波として、それを受けるすべての対象に影響が及ぶ。
意味は、未知の外国語に触れた際の無反応や無感情が示すように、音節や文字そのものの存在だけでは個に何ら影響を与えない。
意味が何らかの影響を与えるためには、言葉と個の間に、共通の経験なり価値観なりが共有されている必要があるだろう。そしてその対象は、その経験や価値観を理解し得る存在ということになる。
そのように考えると、はじめに存在し、宇宙のはじまりに影響を及ぼしたのはやはりことばの響きということになるだろうか。
言葉が持つ響きのエネルギー。
それを言霊と呼ぶのは適切だろうか?
言霊と呼んでしまうと、科学的なアプローチから宗教的なアプローチへと性格が変化し、そして少し雑念と抵抗感が加味されるようにも感じてしまう。
エネルギーをもった言葉、というよりは「ことば」そのものがエネルギーを持つ何か。
であるならば、その言葉を操る人間は、つまり宇宙のはじまりのエネルギーを産み出す力を秘めていると言えはしないだろうか。
人が言葉を発する時、音という波と同時に意味という何かが発現される。
波は、すべての人や対象に影響を与える。
意味という何かは、それを理解する対象にのみ影響を与える。
言葉は波と意味という二面性を持つ。
それならば言葉は、光に近いだろうか。
光は波と粒子という二面性を持つ。
粒子としての光、つまり光子のエネルギーは振動数に比例する。
言葉は粒子のような性質を持つだろうか?
言葉のエネルギーは、音の響きに比例するだろうか。
その存在を理解する対象には影響を与え、理解しない対象には影響を与えない何か。
であれば言葉は光のようであり、光ではない何か。
言語学はそのような現象や対象を追及するであろうか?
宇宙の始まりと根源を求め、物理学は光を求め量子力学や超弦理論の極小域へと進む。
暗闇の中に光を求め、宇宙科学は月から火星、火星から小惑星、そしてブラックホールへと遥か遠くの極大域へと向かう。
宇宙の果てにある何か。宇宙の根源にある何か。
そこで人類が出会うのは、きっと「ことば」に違いない。
はじめにことばありき。
は じ め に こ と ば あ り き
であれば、言葉の響きのエネルギーを解き明かすことが、結局は宇宙の謎を解き明かすことにつながりはしないだろうか。
物理学はやがて、ことばと出会う。
宇宙科学はやがて、ことばと出会う。
そこにあるのは、新しい言語学のはじまり。
言葉が紡ぎだすはじまりのエネルギーの探求。
言葉が未来の最先端科学。
言葉が宇宙解明の鍵。
そんな日がきっと来るに違いない。
その時、自分はまだ生きているだろうか。
その時、地球はまだ存在しているだろうか。
そんな妄想を抱きながら、2020年のはじまりの日を迎える。
言葉の持つ力を、確かめなが生きている私。
言葉の持つエネルギーが、社会を変えていく。
自分の言葉の力で、社会や地球の在り方を変えられるだろうか。
言葉はことば。全ての根源。
2020年元旦。
新たな年の新たな言葉のはじまりの日に想う。
ではまた次回。