信用創造が停止する日

 結婚し、家族を持った20年以上前から、ずっと実現したいことがあります。

それは、お金の信用創造機能を奪い、金利をなくし、お金を本来の兌換手段に戻すことです。

そうすることで、実際に食物や商品やサービスを産み出す者が価値ある存在となり、かつ本来の自由な協業社会と公平な競争社会を呼び戻し、善良な一般市民が人間らしい生き方を取り戻すことができると考えるからです。

それは、現代社会に巣食った人間支配のピラミッド構造を、ぐりんとひっくり返すことと同義でもあります。

そしてその時初めて、地球環境を本当の意味で改善し、人間と共存しながら自然本来の姿に戻すことができると思うのです。

信用創造

 世の中のお金や経済の仕組み、あるいは現代貨幣理論(MMT)を考える上で、避けて通れないのが『信用創造』と呼ばれる、マネーを産み出す金融の仕組みです。

信用創造に関する解説は、書籍やネット、SNSの至る所に転がっています。

ところが様々な説明に目を通し、論理的に頭で理解したつもりになったとしても、信用創造に対するもやもやは、決して消えることがありません。

その理由は、世の中にあふれる一般的な説明が、信用創造の本質を十分伝え切れていないからに他なりません。

このため、いくらその仕組みを理解しても、腑に落ちることがないのです。

今回は、現在社会を生きる上での素養となる”信用創造”の本質について、小中高生の君が実感できる事例に基づいて解説を行いたいと思います。

信用の創造物語

 例えば君が、腹ペコの状態で学校から帰ったとします。

テーブルの上には、何とお母さんの作った美味そうな熱々の唐揚げが置いてあります。

お母さん手製の熱々の唐揚げ

お母さん手製の熱々の唐揚げ

腹ペコの君は、当然夕食まで我慢できるはずもありません。

1個くらいなら分からないだろうと考え、こっそり唐揚げをつまみ食いします(これが実に美味い)。

その瞬間、「おかえりなさい~」と母の声。

君はヒヤヒヤしながらも、ばれずに唐揚げをゲットしたことに安堵。

労せず腹ペコのお腹を満足させることができ、しかもお母さんはその事実に気づいていません。めでたしめでたし。

さていかがでしょうか?

これが『信用創造』の本質です。

え?何で唐揚げのつまみ食いが信用創造なの?と思うかもしれません。

そこで今起きた現象を、別の角度から考えてみます。

信用創造の本質的理解

 君とお母さんと唐揚げの物語を経済的観点から整理すると、以下のようになります。

  • 母親が唐揚げを作る(資産の形成)
  • 君が唐揚げをつまみ食いする(資産の横領)
  • 母親はそれに気づかない(信用の継続)

勿論この話は唐揚げでなくても、いなり寿司でも饅頭でも何でもよいですし、信用創造の成立過程の歴史の中で登場する中世の金貨でもよいのです。

いずれにしても、この中でで生じた横領的価値の移転が信用創造の本質であり、それを直感的に理解できるよう端的な言葉で表すと、

信用創造 = ネコババ

ということになります。

そう、信用創造とは、誰かが第三者の資産や価値をネコババすることに他なりません。

ここで「違う」と感じた方は、信用創造の方法論的な技術的側面に目を奪われている可能性が高いのですが、今は気にせず先に進みます。

信用の対象と主体

 ”信用創造”に関して大切なことは、必ずその価値の移転元となる相手が存在し、移転の際に”相手が君の行為に信用を与えたわけではない”という点です。

信用創造とは、相手に対する横領やネコババに対して、相手が無自覚な状態を保つこと、つまり結果的に価値の移転元の相手(被害者)が価値の移転先の自分(加害者)を信用しているような状態を維持継続することであり、相手の理解や納得が伴う本来の意味での信用とは対極の、ある種の虚構の世界を創り出すということです。

要するに、詐欺です。

”信用創造”という言葉は、一般経済であれば預り金に対する借用書の流通、現代貨幣理論であれば貸出しに対する記帳によりマネーを産み出す経済スキームを指す金融用語として存在しますが、実際には金融以外の事例、例えば結婚詐欺であっても、信用創造と表現することができます。

何しろ自分はその気もないのに相手を結婚する気にさせているのですから、相手の中に信用を創造しているに他なりません。

要するに、相手をある種の脳内仮想現実、メタバース世界の住人として生かす技術という訳です。

現在の貨幣経済が、ある種の幻想世界、あるいは集団睡眠などと表現されるのは、こうした理由にあります。

預かり証とか準備金といった話は、結婚詐欺が相手にどのようにいくら貢がせるかと同じ種類のテクニカルな話であって、本質的な理解とは根本的に異なります。

つまり信用創造とは、詐欺加害者が自らの行為を正当化するために名付けた、恣意的表現だと言えるでしょう。

信用創造と富の占有

 信用創造の本質がネコババにあると理解した上で、次の例をお話しします。

例えば100人が参加するパーティのために、お母さんが唐揚げを100個作ってくれたとします(お母さんありがとう)。

この時、唐揚げは1人1個の勘定です。

しかしそんな状況を逃す食いしん坊の君ではありません。あの時と同じように唐揚げを1個くすねます。

誰も気づきません。

そこでもう1つペロリ。

やはり気づきません。

もう一つ。

そしていつの間にか、気づけば99個の唐揚げを平らげているではありませんか。

唐揚げ食べて満腹の図


唐揚げ食べて満腹の図

皿には残った唐揚げが1つ。

君が99個の唐揚げをこっそり食べ続けた結果、残りの99人はたった1個の唐揚げを分け合うことに。

そんな状況は考えにくい、と君は思うかもしれません。

私自身もそう思いたいところですが、これが目の前で堂々と行われているのが現代社会というものです。

その結果、いつの間にか1%の人間が、99%の富を独占すると言われるような社会が形成されてしまいました。

1人が99個の唐揚げを(1人当99個)、99人が1個の唐揚げを(1人当0.01個)所有する社会です。

1人当たりの唐揚げ資産の格差は、99/0.01=9,900倍にもなります。

唐揚げ100個でこの格差ですから、現実社会の富の独占ぶりは、天文学的な開きになります。

このような状況が、公平な競争により生じた結果であれば仕方がないのかもしれませんが、実際は繰り返される”信用創造”という名の詐欺的行為の結果にすぎません。

1個の唐揚げを99人で分け合うという格差の状況について、現実社会の実態は、約1%の超富裕層が世界全体の40%の資産を所有し、世界人口の50%に当たる39億人の経済的最下位層の人々の資産は、1人当たりたったの0.0000000005%に過ぎません。

世界人口と補修資産割合

これを唐揚げの所有数に置き換えると、最貧層20億人が1個の唐揚げを分け合う状況である一方、最富裕層は1人で787個の唐揚げを所有している状況です。

その様な社会の中では、信用創造によって寡占化された唐揚げを大衆にほんの少しだけちぎって分け与えることで、一部の者が思い通りに社会を動かすことができる状況にあるのです。

椅子取りゲームの喜怒哀楽

 では最後に、現代社会を生きる消費者であり生産者である一般庶民が感じる経済的生き苦しさについて考えます。

100人集合の大パーティーで、君は余興として椅子取りゲームを提案します。私も子供の頃大好きでした。

楽しい椅子取りゲーム

楽しい椅子取りゲーム

君は自ら審判を買って出て、プレーはせずにゲームを見守ります。

ゲームに参加する99人に対し、最初は1脚少ない98脚の椅子を並べます。

ゲームスタート。

楽しいけれど刺激が少ない。

そこでまた1脚抜いて、99人に対して97脚の椅子で再開。

楽しいけどまだまだ。

では次は、またまた1脚抜いて、、、

次第に刺激が高まります。

では次、また次、、、く、苦しい、、、。

いつの間にか、99人のゲーム参加者の前には椅子が1脚しかない状況。その状態は余興を楽しむ余裕がないどころか、競争が激し過ぎてむしろ苦しいに決まっています。

そして審判である君の手元には残りの99脚の椅子が。

これが、信用創造によって生み出される資本主義経済の実態です。

椅子を抜くのが信用創造、どの程度抜くかは金利なり支払準備率によると考えると分かりやすいでしょうか。

現代社会、生き苦しさの理由

 現代社会に生きる者が、生活の中で経済的な苦しさを感じるのは、生まれた時からこの椅子取りゲームの世界に参加させられている結果であり、特に昨今の日本において貧困化や生活の苦しさを感じるのは、人々の努力の欠如といった種類のものではなく、体を休めるはずの椅子の数が極端に減らされた、ネコババ経済が究極的に進んだ結果です。

99人に対して椅子が1脚しか与えられていなければ、そのゲームは楽しむためのものではなく、極度の弱肉強食を促す世界。

他者への思いやりや、いたわりの気薄な、殺伐とした世の中になることでしょう。

そして有り余る椅子を持つ君が、

「こっちに来て座っていいよ」

と一部のプレーヤーに甘い声をかけ、手先を募る。

管理側に加わった者は、いつでも座って休めるし、唐揚げは食べ放題だし、限られた椅子や唐揚げを求めて熾烈な競争を繰り広げる一般大衆を見せ者のように涼しい顔で眺めながら、優越感を持って暮らせるし、好きなことを好きな時に好きなだけ、でいいことづくめ、のはず。

でもなんか虚しい。

人類は、信用創造による富と権力の寡占化を許し、圧倒的大多数の一般市民の穏やかで豊かな暮らしがネコババされていることを結果的に容認してきました。

ところがその完璧なはずのピラミッドは、遂に完成に至ると思いきや、むしろ今、そうではない何かが起き始めているように感じます。

信用創造の終焉

 現代社会のあらゆる問題を、根本から直ちに解決する方法があります。

それは、100人100脚の椅子取りゲームを社会が行うことです。

プレーヤーと椅子の数が同じ椅子取りゲーム程、緊張感も面白味もないゲームはありません。何しろいつでも競争なしに座ることができるのですから。

それは市場経済的な観点から見れば、信用創造も金利も存在しない世界。

家を建てるために借りた2,000万円を、30年後に2,000万円返せばよい債務世界です。

仮にそのような社会が実現した場合、人間は成長せず、堕落すると言う者がいます。

あるいは経済成長や社会の発展が実現しない世の中になる。本当でしょうか?

私はそうは思いません。

健全な労働に健全な利益、健全な競争や格差の実現。

人類は、その時初めて真に生きる自由を手に入れ、個性を輝かせることができるはずだと感じています。

勉強したい者は勉強する、農業を行いたい者は農業する、宇宙の謎を追求したい者は宇宙を追及する、政治を行いたい者は政治を行う。

そして誰かが何かを求める時、あるいは自分が何かを始めたいと思った時、そこには需要が生じ、生産と消費が生まれます。

その需要と供給のバランスは、生きとし生けるものが男女の比率を最適化して産み分けるように、地に足着いた実体経済として需給バランスと地球資源との均衡を保ちながら、健全な成長を遂げるでしょう。

その社会にある労働は、信用創造により取り上げられた椅子を取り戻すために働く奴隷労働ではなく、自己実現や他者を思いやるために働く世界。

家族や子供たちのために、そんな当たり前の世界を取り戻したいと思うのです。

信用泥棒と信用ルネッサンス

 ミヒャエル・エンデの『モモ』を読んだことがあるでしょうか? 

時間を奪い続けるのが時間泥棒であるように、君から自由や資産を奪い続けるのが信用創造という自動機械です。

”信用創造”とは、本質的には”信用泥棒”と名付けるべき仕組み。

生まれながらに存在する、世の中や人々を信じる善良な心を踏みにじり、利己的満足のために自由を無断で奪う灰色の男たち。

そんな灰色の男たちを打ち負かすのは、核兵器でもなければミサイルや軍隊でもなく、裸の王様に向かって「王様は裸だ!」と指摘する純粋な気持ち。

「これはただの紙切れだ!」

人々がそう自覚した瞬間、信用創造という幻想世界は終わりを告げ、強大な権力を支える幻の楼閣は崩れ落ちるのです。

その大どんでん返しを成し遂げて、本来の人間世界を取り戻すのが信用ルネッサンスとでも言うべき相手を信頼する心に満ちた本当の信用世界。

そんな時代の到来を見届ける日が、訪れるように思えてなりません。

「政府は政府の費用を賄い、一般国民の消費に必要な全ての通貨を自分で発行し流通させるべき」

かつてリンカーンが述べたように、金融や通貨発行は本来、政府を通じて一般市民の手に帰するべきもの。そういう世界を実現したい。

今回は、生まれながらにして強制的に押し付けられる信用創造という世界を、日常生活で誰もが経験したことのある状況に落とし込んで説明してみました。

信用創造とは何か、ここに書かれた文書が信用できる内容であるのかどうか、君も一度自分の手で調べてみてはいかがでしょうか?

ではまた次回。