主体性なき岸田総理のできるまで|東大入試と高校受験

岸田文雄内閣総理大臣|出典:首相官邸HP

岸田文雄内閣総理大臣|出典:首相官邸HP

 岸田首相は、華麗なる一族の華麗なる家庭の中で生まれ育った、国家体制側のサラブレッドの系譜であることは疑いのない事実だと思いますが、首相に至るまでの本人の経歴や政治家としての資質が華麗なものであるかについては、一考の余地がありそうな状況が伺えます。

岸田首相の生い立ちと学生時代

広島県出身の通商産業省(現:経済産業省)の官僚であった父・岸田文武の元に東京都渋谷区で生まれる。親の教育方針もあり、文雄は東京で育てられた。

1963年、父の仕事の関係でアメリカ合衆国ニューヨーク市に居住し、小学校1年生から3年生まで3年間、現地のパブリックスクール(公立小学校)に通う。

1966年6月にパブリックスクール3年次を修了して日本に帰国。

7月に永田町小学校(現:麹町小学校)の3年次に転入。

麹町中学校を経て、1973年に開成高等学校に入学。

1976年に同高校を卒業、東京大学合格を目指し2年間の浪人を経験。

1978年に早稲田大学法学部に入学。

政治家を数多く輩出している同大学に学んだものの、政治家を志したわけではなかった。当時は夏目漱石のような文豪に憧れ、庄司薫の小説も愛読し一人旅を好んだ。

出典:ウィキペディア「岸田文雄」

岸田首相の幼少年期は、官僚であった父が望んだブランド小中学校卒業という華やかなものがありますが、よく知られた通り、東大入試に三度失敗するなど、義務教育以降本人の実力本位となる青年期以降は、それまでの輝かしさに陰りが見られます。

岸田首相の高校受験

 東大入試の失敗と比較して、ほとんど語られることがないのが高校受験です。

開成高校に入学した岸田氏は、当然高校受験を経験したことになります。

現在であれば、何故中学から入学しなかったのか?という些細な疑問は残るにしても、開成高校卒業は華麗なる経歴に花を添えるものでことであることは疑いの余地がないとの判断に至ります。

ところが岸田青年が高校受験を迎える時代に遡ると、状況はそう単純なものではありません。

何故ならば、当時の開成高校に対する世間の評価は、現在のものとは大きく異なる状況があったからです。

1972年の高校受験事情

 岸田総理が1966年に日本に帰国した後、公立中学を経て1973年に高校生となるこの時代は、正に戦後昭和の激動の時代であると同時に、高校受験業界における価値観の激変を迎える、ある種のグレートリセット過渡期に当たります。

その当時の混乱ぶりは、東大合格数に関わる以下の情報をご覧いただければ直感的に理解できるというものです。

出典:中学・高校探しナビ(過去資料)

出典:中学・高校探しナビ(過去資料)

岸田首相との関わりが理解できるよう、青少年期の情報も付記しました。

何と岸田首相は、都立高校が学校群制度導入を実施する前年に小学校3年生で帰国し、高等学校の序列に対する変化と混乱が進む混沌とした時代に、その激震の中心地である永田町で小中学校生活を送っていたのです。

岸田少年は、永田町小学校、麹町中学校という政界の中心地にあるブランド公立学校に通いながら、同じく永田町に位置するブランド高校、日比谷高校の凋落を、文字通り目と鼻の先から眺めていたことになります。

この時期は、学校群制度により、それまでの圧倒的な都立高校評価の価値観が次第に崩壊し、受け皿として国立大附属高校へ優秀層が流れると同時に、一部の私立高校が台頭する足掛かりとなる状況であったことが資料から推察されます。

開成高校も、その時流の中で名乗りを上げた、新興勢力の一つと見做すことができるでしょう。

また1969年、岸田少年が小学校6年生となる年には、学生紛争激化による東大入試の中止が強行されるなど、受験や学校に対する信頼や評価や価値観が、激変する時代だったことが伺えます。

岸田青年の高校第1志望

 さてここまで見てきて素直に思うことは、岸田首相の高校受験の第1志望が、果たして開成高校だったのか?という疑問です。

もう一度、冒頭の経歴と東大合格数の推移をよくご覧ください。

岸田青年が高校受験に臨んだのは1973年の新春、つまり、その時点での各校の評価は、1972年までの実績により判断されていたことになります

長男として、華麗なる一族を継ぐ身に生まれた文雄少年の教育を第一に考え、親元から放して東京で幼少期を過ごす判断を下し、大学受験で三度まで東大挑戦を容認した父親が、1972年の段階で、高校進学先の第1志望として開成高校を選択するかということです。

それまでの経緯を客観的に見た場合、その答えはNoでしょう。

仮に私自身が当時の父親であれば、”教育大付”、つまり現在の筑波大附属高校を第1志望に推した可能性が高いと思います。

それは将来の天皇候補を擁する秋篠宮家が、現在においても筑波大附属高校を選択した事実を鑑みても、当時の華麗なる一族にとっては全く無理のない妥当な判断のように思います。

もし岸田青年の高校受験が4年以上前であったなら、父親も本人も含めて誰もが迷わず日比谷高校受験を望む状況があったでしょう。ただ、1972年までの資料を客観的に眺めた場合には、よほどのロマニストでない限り、その選択はなかったと考えられます。

浪漫派の青年、心の第1志望

 当時岸田青年は、父親の勧めに従い高校を受験したことでしょう。

ただしもしかすると、自分自身の心の第1志望は、親とは同じではなかったかもしれません。

1978年に早稲田大学法学部に入学。政治家を数多く輩出している同大学に学んだものの、政治家を志したわけではなかった。当時は夏目漱石のような文豪に憧れ、庄司薫の小説も愛読し一人旅を好んだ。

ここに書かれた本人像が正しいとした場合、文雄青年は政界や財界のきな臭い現実世界ではなく、「それから」の代助や「赤頭巾ちゃん気をつけて」の薫のように、お金や権力闘争には関心のない、高等遊民的志向のロマンチストだった可能性を感じます。

つまり、大学受験や将来に対する合理的な選択よりも、かつて漱石が通い、薫くんが青春を過ごした、まだまだ当時一般には絶対的な存在として名を轟かせたであろう日比谷高校への想いを、密かに抱いていた可能性はあったと言えるかもしれません。

開成高校以外の受験校は明らかにされていませんが、ここに掲げた資料を見る限り、岸田青年は高校受験第1志望校不合格の結果、開成高校に入学した可能性が高いのではないかと推察します。

リーダーの資質

 このような文章をお届けするのは、日本固有の文化や価値観の解体に繋がるような施策を積極的に採用する岸田首相に対し、不安を覚えると同時に、何故そのような考えや資質が育まれ、現在のような人物像が生まれたのかを理解するためです。

そして、リーダーとしての資質に不安を感じるに至った直接の理由は、2018年の総裁選で明らかとなった、以下の状況を耳にした時からです。

「私はどうしたらいいのでしょうか」

 6月18日夜、首相と2人だけで会食した岸田氏は冒頭、こう語り、首相をあきれさせた。

産経新聞|2018年7月25日

これまで遠回しに腹を探ってきた安倍だったが、この日は単刀直入に切り出した。

「岸田さんはどうするの?」。

岸田は「どうしましょうか」といつものように煮え切らず、安倍支持を明言しなかった。

読売新聞|2018年7月26日

このエピソードが2018年、初当選から25年、還暦を過ぎた閣僚級政治家の言葉だと考える時、岸田文雄という人物が、そもそも政治家やビジネスマン、あるいは広義の意味では組織のリーダーに最も向いていないタイプではないかと感じるのです。

そこにあるのは社会や組織のリーダーではなく、青年期に夢見た詩的世界の延長で生きる住人のような、私人としてはある意味優しく害のない、政治家としては絶対的な国家観や政治信念がないが故に、芯がなく流されやすい害のある人物像。

良くも悪くも自らの政治信条を成し遂げるために政治家を志したのではなく、生い立ちや周囲の環境に流された結果誕生した政治家。

そうした不安がよぎるのです。

そしてその資質の形成を垣間見る手段の一つとして、思春期における自分史上に残るイベントが、その情報を得るための鍵を提供してくれるのではないかと直感的に感じたのです。

その重要イベントの一つが、高校受験や大学受験という訳です。

充たされない?青年の想い

 もしかすると、東大受験に対し二浪で臨んだのは、東大に是が非でも入学したいという本人の強い意志の現れではなく、東大法学部や高級官僚が当たり前に並ぶ家系の長男として生まれたことに対する、周囲からの期待や圧力への配慮、そんな他人の価値観からの選択だったのではないか?

文雄青年自身の本心は、結果の如何に関わらず、大学受験を早々切り上げて、自分の詩的世界に浸りたかったのではないか?

高校から大学、そして政治家に至る青年期の自己形成期において、あるいは政治家となった後もずっと、心の奥深くでは自分自身の生きるべき世界とは異なる、充たされない何かを感じているのではないか?

話を聞く能力をアピールすることは、逆に政治家としての信念や信条の欠如を端的に表すものではないか?

政治リーダーとして、確固たる覚悟や信念を持たない人物が、最高権力を握る状況には、当然大きな不安を感じるものです。足元の状況を顧みず、耳触りのよい虚構の理想世界に耳を傾けているのではないかと。

そしてその不安は今正に、戦争や感染症、食や性に対する施策など、政府の目指すグレートリセットの先の世界に最大限の懸念として現れるのです。

グレートリセットその果てに

 私自身の目から見て、そのような岸田総理は、より大きな力を持つ者にとっては非常に使い勝手の良い指導者であると言わざるを得ません。

「私はどうしたらいいのでしょうか」

一国の代表たる総理大臣が、そのような空虚なマインドセットで国を導く時、付け入る隙が大きいが故に、周囲の邪悪な者たちの誘うがままに、亡国へと向かう足音が急速に近づいて来るように感じてなりません。

多くの国民が強く実感しているように、聞く力を持つはずの耳の方向が、残念ながら彼方を向いてしまっているのです。

漱石がかつて三四郎の中で指摘した、滅びゆく日本を引寄せるためではなく、青年岸田文雄が憧れた、漱石が生き、開化期の昂揚ある楽天主義に満ちた希望ある未来を再び実現するために、政治家岸田文雄が持つという聞く力を、是非とも日本の声を聴くために使ってもらいたいと願って止みません。

結果手的にそれが、全世界の人類のために繋がるのだと信じて疑いません。

ではまた次回。